谷 好通コラム

2012年05月13日(日曜日)

人の役に立つことを潔しとする人生

一昨日、一つのお葬式に出席してきました。
会社の仕事としても大変お世話になっており、
個人的にも大変尊敬している方のお父上のお葬式です。

 

そのお葬式の中で、
私が尊敬している方、つまり喪主がご挨拶の中で話されたお話に、
私は自分のこれからの人生を変えるような大きな感動をいただきました。

 

お話の主人公は、85歳でお亡くなりになったお父上です。

 

「父は、昭和2年、旭川に近い貧しい農村で、
子沢山の、8人兄弟の次男として生まれました。
・・・・・・・・」
(以降、お父上のことを文中ではお名前を控えたいので”彼”と呼びます)

 

 

太平洋戦争の末期、青年になった彼は特攻に志願しました。
貧しい農家に育った彼は、いつも空腹で、
特攻に入れば腹いっぱい飯が食える。酒も飲める。
そんなことが志願の理由だったと彼は言っていたそうですが、
それは彼の照れであって、
本当はやはり家族や日本国民を守りたいという強い心情だったのでしょう。

 

神風特攻隊の基地は鹿児島の”知覧”にあります。
特攻隊には志願すればなれるものではなく、
とても厳しい試験があり、
特攻隊に受かるには優れた身体能力に加えて、
国立大学、当時の帝国大学に合格する以上の知力が求められる難しさです。
(ここの部分は自分で調べました)

 

彼は15期の特攻隊に参加したかったのですが、
家族から反対され、
説得するのに時間がかかって、16期特攻隊に参加する事になりました。
しかし、この時も、腕の骨を折ってしまい出撃を断念せざるを得なくなって、
結局、17期特攻隊に参加する事になったのです。

 

15期特攻隊は全員が敵艦に突入、
あるいは途中で撃ち落されたりで”全滅”。
16期特攻隊は、特攻のための機体が足らなかったので、
わずかの人が残されたそうですが、ほとんど全員が帰還せず。
しかし17期特攻隊は、出撃前に終戦になり、全員が生き残ったのでした。

 

彼は家族の説得、骨折で、はらずも生き残ってしまったのです。
だから今まで生きてこれたのです。
これも人間の”運命”なのでしょう。

 

終戦後、
特攻隊の人たちは飛行機の操縦ができ、
きわめて優秀な人たちばかりであったので、
生き残った仲間たちの多くは、
民間航空会社のパイロットになり、
のちのJAL、ANAなどで活躍したそうです。
しかし彼には考えがあったのか、
なぜか刑務所の看守になりました。
凶悪犯が収容されることで有名な網走刑務所です。

 

網走刑務所では看守として勤めていた何十年間、
出世はしませんでしたが、
真面目に、真面目に勤め、無遅刻、無欠勤、早退も1度もなく勤めたそうです。
一方では、お酒が大好きで、いつも仲間たちとお酒を飲み、
博打も大好きで、マージャンなどをよくやっていました。

 

時に仕事で、
東京へ囚人を網走刑務所から護送することもありました。
昔は飛行機の路線もありませんので列車で片道二日間の旅です。
東京に行き
無事に囚人を送り届けると、東京で一日休みがあります。
すると、博打好きな彼は、早速、競馬に行って、
スッテンテンに負け一文無しになってしまい、
帰りの二日間の旅の間、何も食べなかったことがありました。

 

飯を食べない彼を見て
同僚が「なぜ飯を食べないのか」とたずねると、
「腹が痛いから飯が食べられない。」と答えたそうです。

 

 

網走刑務所で、彼は、
上司と話をする時も、同僚と話す時も、囚人と話す時も、
まったく同じ話し方をしていました。
へつらうこともなく、えらぶったりすることもなく、
わけへだてなく、接し、
誰と話す時もまったく変わらず、同じように話し接しました。
だから彼は、囚人達からずいぶん慕われていたそうです。

 

 

囚人が刑期を終え、晴れて釈放になると、
多くの者が網走市の街に繰り出して、酒を飲んで、
それまでの監獄での生活の鬱憤を晴らすように大騒ぎしたそうです。
それで、わずかなお金を使い果たして
一文無しになってしまうのです。
すると、網走刑務所から故郷に帰る列車代もなくなってしまい、
囚人であった時に慕っていた彼に、
「故郷に帰るお金を貸して欲しい、必ず返すから。」と無心をしにきました。
お金に余裕のある彼の家庭ではなかったのですが
そのたびに彼は貸してあげました。

 

そのお金が帰ってきたことは一度もありません。
それでも、彼は出所した囚人達にお金を”貸し”続けたのです。

 

 

そこまで話をされて形式にのっとったご挨拶のあと、
こう続けられた。

 

残された遺族は、故人に習って、
人のために少しでもお役に立てるように生きて行きたいと思います。

 

 

お葬式に列席中に聞いた話しなので、
足らない部分も、聞き間違いの部分もあるでしょうが、
おおよそこんな話だったと思います。
私はこの話を聞きしながら涙が出てくるのを抑えることが出来ませんでした。

 

お話をされた喪主である方は、私が大変尊敬している人です。
あくまでも懐が深く、厳しくも、
誰にでもわけへだてなく人に接し、
深い、深いやさしさを持った方です。
仕事としてお世話になっているだけでなく、
一人の人間として大変尊敬しています。

 

そんな方が、
こういう生き方のお父様の家庭に育ったから、今があるのだと、
話をお聞きして、よく解かったことで、
ものすごく納得できて、謎が解けたかのように感動してしまったのです。
わずか四、五分のお話でしたが、深い感動を覚えました。

 

 

彼は、望めば民間航空会社のパイロットになれたものを
なぜ刑務所の看守になったのでしょう。

 

私の勝手な想像でしかありませんが、

 

運命のいたずらで、特攻で死ぬことなく生き残った彼は、
これからの人生を我が身の立身出世、つまり、
自らの為に生きることを潔しとしなかったのではないでしょうか。
それで、
人生を失敗して刑務所に来た囚人達が、
人間としての心を再び取り戻すための仕事を選んだのではないでしょうか。
死ぬべく覚悟を決めた特攻から生き残ってしまった自分の人生を、
人のために生きることを選んだのではないでしょうか。
だから、
囚人達に対して、上司や同僚に対するのとまったく変わらなく同じように接し、
同じように話しをしたのではないでしょうか。

 

しかし、もし、囚人を虫けらのように扱う看守や上司がいたら、
彼の囚人に対する態度や接し方は理解できず、
だから、彼は出世もしなかったのではないでしょうか。

 

かといって、彼が聖人であるわけではありません。
酒が大好きで博打も好きな煩悩あふれる”人間”です。
人間だから、人間を愛し、許し、自分の煩悩をも煩悩として愛し、
自分のためでなく、人のために生きることを潔しとしたのでないでしょうか。

 

お棺の上に掲げられたお父上のお写真は、
看守時代の制服をまとい、飄々とした表情で、
しかし人間としての意志の強さを感じさせる、
凛とし、透き通るような表情のお写真でした。
式場に入ってお写真を一目見たとたん、ああこの方がお父上なのだ。
なるほどな。とものすごく納得しました。
本当に一目見て納得したのです。

 

覚悟の上で特攻に志願し、出撃を目前にした死から生き残ったあと、
お父上は無私になられたのではないでしょうか。

 

お話をお聞きしながら、
その時は、涙が出てきたことに不思議さが伴っていたのですが、
あとで話を思い出し、考えながら、
自分が感じた感動の意味がわかってきて、
思い出すたびに目頭が熱くなり
私もいつか、彼の心境に少しでも近づけたら、
少しは人のお役に立てて、いい人生を送り、終えられるような気がしました。

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    代表取締役会長兼CEO

    谷 好通

    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
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