谷 好通コラム

2007年10月15日(月曜日)

1751.素直に心から嬉しいと思う

今、SUGOでのレースが終わって、仙台から帰る飛行機の中で、これを書き始めている。

 

レースはクラス二位の結果であった。
今年初めての入賞だ。

 

素直に心からうれしい。

 

スタートドライバーとして3位以下の後ろに圧倒的な差をつけてくれた畠中君と、
私とチームに適切なアドバイスと指示をしてくれた監督の田ケ原さんと、
一生懸命に車を整備してくれ、
すばやいピットワークをやってくれた小林君のおかげである。

 

今年は、一人で走った前の5戦はボロボロであった。

 

一戦目の岡山TIでは不当にESPが効いてしまって、後半何台かに抜かれ悔しい思いをした。
二戦目の富士スピードウェーではピットロードのスピード違反で、最後尾スタート。
三戦目の雨のもてぎツインリンクでは、レース中痛恨の3スピンでビリになった。
四戦目の富士スピードウェーでは、アホなエアコン切り忘れで焦ってしまい、
大田中選手の車に激突し、ひどい迷惑をかけてしまった。
最終戦のSUGOだけはと思って二週間前に練習に来たら、
魔のSPコーナーでガードレールに激突し車を大きく壊してしまった。
それで私はもう限界と考え、レースをやめようと決心した。

 

しかし、このままでは
今年二回もぶつけてしまった?25キーパーGTIがあまりにも可愛そうだと思って、
SUGO戦を畠中君一人に走ってもらおうと考えた。

 

車はフォルクスワーゲン仙台南の方の懸命な修理でレースの直前に直り、
先に仙台に入った私が
そのシェイクダウンの走り込みを引き受けたのだが、
その走りに同行してくれ、
監督を務めていただいた現役GT選手権ドライバーの田ケ原さんに、
SUGOサーキットのことや、レースのことをいっぱい教えてもらって、
「社長が走らなかったら僕が来た意味が無いでしょ。
レースに出て走らなきゃだめですよ。」と言ってもらって、
色々と考えた挙句、走ることにした。

 

「もうやめる。」と宣言をしておいて、
前言を翻す形でまたレースに出るのは、
男として、無責任であり恥ずかしいことだが、
実際にまたSUGOのコースに出て、
色々と教えてもらっている間に本当にレースで走りたいと思ってしまったのだ。

 

全部で26周を走るこのミニ耐久は、
一人で走っても二人で走ってもいいことになっている。
一人で走る場合は、一回はピットに戻り一度ドライバーが降りてもう一度乗り込んで走る形で
二人で走るチームのドライバー交代と同じ条件になるようにしてある。
今回出た14チームの内、
8チームが一人で走り、
6チームが二人で走ることになっていた。
私たちのチームは、畠中君をAドライバーとし私はBドライバーとした二人体制だ。

 

午前中の予選は畠中君が走り、
クラブマンクラス10台中の2位。1分45秒4であった。
エキスパートクラスが4台いるが、その1台よりも上の総合5位でもある。

 

私はそのあとのフリー走行を、体ならしに走って48秒2。
準備運動代わりと言っても結構一生懸命走ったつもりだが、意外とタイムが伸びない。
これを予選に当てはめるとドベ2のタイムではないか。
内心「やばいな」と思う。
ゴルフカップレースは毎年みんな練習しているのか、
みんな揃って去年のタイムより確実に1秒ずつは速くなっている。
予選で去年までは真ん中ぐらいのタイムであった48秒台では、もう通用しないのだ。

 

先々週、激突したSPコーナーがトラウマになっているのかと言えばそんなことは無い。
田ケ原さんに教えてもらい、
何故あの場所でスピンしたのか理解できていたし、
どうすれば大丈夫なのかも理解し、
それを出来るようになっていた。
SUGOのサーキットは基本的にすべて高速のコーナーの連続なので、
ブレーキは減速というよりも車の向きを変えるきっかけであって、
コーナーはアクセルで曲がっていくという方法で抜けていく。
それがSUGOの法則であるというのだ。

 

それを実行すると、意外とタイムは伸びないのだが、
車体の挙動にまったく不安が無くなり、そこからまた攻めて行けるといういい循環になる。

 

 

決勝である。
午後1時15分、ローリングスタートのためのフォーメーションラップが始まり、
やがてスタートラインに全車が近づいてくる。
ちょっとドキドキする一瞬だ。

 

スタートは無難であった。
本人は駆け引きをしていたらしいが、はたから見ているととりあえず無難であった。
スタート直後の1コーナーは順位どおりの5番目。
その後2周目、3周目と同じ順位のまま縦一列になり、
その差がタイムどおりに開いていく。
クラス2位のまま、3位と差が徐々に開いていき、
彼のノルマである16周を周りきった時点ではクラス3位とは10秒ほどの差まで開いていった。
畠中くんのタイムは常時45秒前半で、予選タイムよりむしろ速かったのは、
すごいものである。
ちなみにレースが終わった時点で、彼のファステストタイムは総合で3位であった。

 

私にバトンタッチするためにピットに入ってきたのは、
16周目から17周目にかかるところ。
だから私のノルマは10周である。

 

ピットインして、ドライバーを交代する練習は、いやというほどやった。
これも監督である田ケ原さんの指示で、かれこれ15回はやった。
それが功を奏したのか私たちのピットインは、
他のチームに比べてもかなり速かったと思う。

 

Bドライバーとして私がコースに出た時、
前にいるはずのエキスパートクラスの?00が後ろにいたのは、
私たちのドライバー交代が
いかに速かったのかを物語っている。

 

しかし私とは速さがまるで違う?00が、
私をパスするにはそれほど時間はかからなかった。
私が出て2周目、
すんなりとパスして行った後は、
私は、いかにポジションキープして車を壊さずにゴールするかということで、
いっぱいになって、
後ろのクラス3位との差が13秒あるとサインボードを見たとき、
私はかえって萎縮してしまったのか、
2周目、3周目、なんと1分50秒と51秒で走ってしまったのだ。

 

後ろとの差は一気に8秒に縮まり、このまま行けば3位転落おろか、
そのあとに接近している三台に抜かれ入賞どころではなくなってしまうのだ。
とこう書くが、実際は、
私は、三位との差が13秒あるとサインボードにあったのを見て、
変に守りのリズムで走ったのか、よく分からないが、
いずれにしても、畠中君が稼いだ時間を浪費してしまうところであった。

 

三位との差が13秒から8秒にまで一挙に縮まった時、
やっと私のモードがレースチャンネルに変わって、
いつものようにコーナーを攻めるようになったのか、
突然1分47秒台で走るようになった。
午前中のフリー走行で48秒しか出せなかったのが、突然47秒台で走ったのは、
当の本人もよく分からない。
いずれにしても、
それから47秒台から48秒前半のタイムでコンスタントに走ったので、
三位との差は5秒までに縮まっただけで、
私が走りはじめて10周目、レースが始まってから26周目、
クラス二位のポジションをキープしたままゴールした。

 

クラス二位に入れたのは、
スタートドライバーの畠中君が速かったからである。
それにドライバーチェンジがうまく行ったこと。
そして、それをすべて帳消ししにしない程度に私が走れたこと。

 

結局、私が勝ったのではなく、
畠中君が勝ったのであり、監督の田ケ原さんの指示がうまかったことに尽きるのだが、
私もそれに混ぜてもらうことが出来たのは、
素直に、素直に喜びたい。

 

こんなに嬉しいことはなかった。
はしゃぐほどのことではないが、心の底から嬉しい。
素直に嬉しい。

 

 

プロカメラマン中村さんが撮ってくれた写真の速報がもう届いている。

 

 

今日は朝から晴れて、
もう秋の冷たさになっているのに仙台の日差しは強かった。

 

 

すべての片づけが済んで、
飛行機の時間が迫り、
仙台営業所に荷物をグチャグチャにおいて(仙台の諸君スマン)
飛行場に向かったのはもう日が暮れかけたころであった。

 

 

今回のレースの監督、田ケ原さん。
現役バリバリのGTレースドライバーであり、
来年は大いなる野望を持っている。

 

ありがとうございました。

 

ページのトップへ ページのトップへ

  • 最近の記事

  • プロフィール

    代表取締役会長兼CEO

    谷 好通

    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
    読めば読むほど元気になること間違いなし。・・・の、はず。

  • カレンダー

    2024年3月
     12
    3456789
    10111213141516
    17181920212223
    24252627282930
    31  
  • リンク集

  • 過去の記事

  • RSS1.0

    [Login]

    (C) KeePer Giken. All rights reserved.