谷 好通コラム

2003年11月29日(土曜日)

843話 “おもちゃ”の山

私は三歳の時、脊髄性小児麻痺にかかった
いわゆる「ポリオ」である

 

そのころは親父の会社の社宅に住んでいた
表に近い畳の部屋に私が座っていたところへ
近所の両親と仲のいい伊藤のおばさんがやってきて
「ヨシ君、おはよう。こっちおいで」と
手を出してくれた
(私、谷好通は、小さい時“ヨシ君”と呼ばれていたのだ(爆))

 

私も、その伊藤のおばさんが大好きで
いつもなら、おばさんが出してくれた手にすっ飛んでいったのに
その日は、ジッとして動かなかった
「どうしたの?ヨシ君」
それでも、動こうとしなかった

 

「えっちゃん!ヨシ君が何かおかしいよ!」
(えっちゃんとは、母の名前)

 

その時、私は動かなかったのではなくて
動けなかったのだ
足が麻痺して、立ち上がることが出来なくなっていた

 

※この話は、私が結婚したころ伊藤のおばさんから聞いた話。

 

そのころ、日本国中ポリオが大流行して猛威を振るっていた
あわてて、私を病院に連れて行ったおふくろは
小児科の先生から小児麻痺の宣告を受けた

 

原因は、たぶん
親父が連れて行ってくれた釣りで、昼飯のおにぎりを食べるとき
池の水で手を洗ったことだろう、ということ

 

それからお袋の苦行が始まった
毎日!足が萎えた私をおんぶしての病院通い

 

私は小さい時からちょっと重かった
お袋といえば身長140cm台のかなり小さい人だ
「あの時のあんたの重みは一生忘れんわ」と今でも言う

 

毎日、病院に通った

 

家は共和、病院は安城の厚生病院
家から2kmぐらい離れた共和駅から国鉄に乗って
3つか4つ目の安城駅までディーゼル機関車
そこからまた何百メートルかを歩いた
大変であっただろう

 

病院に行ったら、でっかい注射と
ビリビリと痛い電気を流す“電気マッサージ”
麻痺してしまった神経に、電流の刺激を加えるリハビリだ
これは小学生のころまで続いて
私は今でも、電気のビリビリには過敏に反応する
電気は大嫌いである

 

私は病院に行くのが大嫌いで
家を出るたびにぐずった
困ったおふくろは
「駅でおもちゃ買ったげるから」と悲しそうに言う

 

そのころの国鉄の駅には売店があって
その売店には、お土産のブリキのおもちゃが売っていた
私は1.2年の病院通いのほとんど毎日
ブリキのおもちゃを買ってもらったのだ
家には、押入れに入りきらないほどの“おもちゃ”

 

おもちゃだけは山ほどあったが
家は貧乏であった
そのころ、親父がたしか26歳ぐらい、おふくろは24歳ぐらいか
給料だってそんなには無い
そこに、毎日の病院での支払い、電車代、そしておもちゃ代
それでもおふくろは、痛い治療の病院に行くのがいやで“ぐずる”私のために
「おもちゃ買ったげるから」と毎日悲しく言った

 

おふくろは一日中内職をしていたし
親父は、アルバイトでニワトリを飼って、卵を売った
そのニワトリ小屋は自分で作ったもの
何百羽のニワトリ小屋が一時、社宅である家の庭にあった
そのニワトリが野良犬に襲われて
全滅したとき、親父はあたりかまわず泣いたという
生活は極貧であった

 

それでも、そのおかげで
後遺症は左足だけで済み、しかも、膝から下だけの障害を残して完治した
障害の度合いはポリオを患った人の中でも軽い方である

 

しかし、当然ビッコは引く
小さな子供は残酷なもので、何かやるごとに
幼稚園では「ビッコ、ビッコ」と容赦なく私に罵声を浴びせた
面白がって、柱に縛られたりもした
私は幼稚園がいやでいやで、何度となく脱走した
その度におふくろは私を幼稚園に引き戻した
「逃げてきたらイカンちゅったでしょ、なにをあまったれとるの」

 

両親の引越しで幼稚園が名古屋市内に変わった
そこからは、いじめられた事を一つも憶えていない

 

小学校に入っても、中学校に入っても
自分がビッコであることを意識したことはほとんど無かった
普通の小学生であり、中学生であった(少し悪かったが・・)
成績もマァマァ
学級委員をちょくちょくやったぐらい
しかし体育の通信簿だけはいつも「1」であった
徒競走でも、マラソンでも、私は全校で一番遅かった
が、それだけであって、それがコンプレックスにもならなかった
ただ一度
中学校の体操の時間、冬のマラソンの練習のとき
練習がつらく、サボりたかったので、担当の先生に言った
「僕、足が悪いので、マラソンすると痛いんです。練習を休ませてください。」
そうしたら
「だめだ。それで自分を許したら、その先がないぞ」
たしか、中島先生と言ったと思う
背の小さな真っ黒の熱血先生であった
結局
その冬のマラソンもやっぱり出て
やっぱりビリであった
拍手をもらってのビリではない
ゴールに応援が誰もいなくなってからのビリであった
でも、あのときの先生の目が強くて、今でもはっきり覚えている
あれから、一度も障害を理由に体操を休んだことはない
先生に感謝している

 

高校のとき
私は柔道部に入った
いきさつは色々あるのだが、長い話になるのでここで書くのはやめる
とにかく柔道部に入った

 

部内で練習のときは、左足に力が入らないので、そこをつかれると弱かった
ところが、外部との試合になると
私はめっぽう強い
相手が私の変則的な柔道に戸惑っているうちに
勝ってしまうのだ
名古屋市制柔道大会で、私はベスト8にまで残ってしまったほどなのだ
この時だろう
自分の持っている障害が、得をすることもあるものだと知ったのは
それを、おふくろに言ったら
すごく喜んだ
おかしいほど喜んだ
おふくろが私の障害ゆえに勝ったことをすごく喜んでくれたことに
私はなぜか、得意げに思ったものだ
私は、柔道の黒帯なのだ

 

そして、高校のとき
私は、マラソンで、ビリから全校3位であった
私がいた高校に
腰から下に障害が残っている私よりひどいポリオの経験者が一人
それから、虚弱体質なのだろうかいつも顔が真っ青な友達の小川君が
私より後ろで走っていた
私は、彼らのことを「かわいそうだ」なんて
自分だって大して変わらないくせに、生意気に同情なんかしたりした
バカである

 

高校を卒業して運転免許を取りに行ったとき
左足で踏むクラッチが、なかなかうまく踏めず
教習上からおふくろに泣き言の電話をした事がある
「左足が悪いとクラッチがうまく踏めんよ。泣けてきちゃうよ」
おふくろ
「そんなこと言ったって、その足があんたの足なんだから、しょうがないよ。
その足でやらなくちゃ、しょうがないよ。」
困った声であった
私は、お袋を困らせたことを
それが判っていて、泣き言を言ったことをひどく後悔した

 

もちろん免許は取れた
障害があることは、自分の免許に制限を受けることにもなるので
結局、何も言わなかった
そして、普通に運転免許を取ることが出来た

 

親父がよく言った
「お前は足が悪いのだから、肉体労働は出来ない
一生懸命勉強して、頭脳労働者にならなくちゃイカンのだ」

 

私は夜学に行く時に、就職もした
ガソリンスタンドを選んだ
親父には反対されたが、気にしなかった
その時、給料が一番高かったのがガソリンスタンドであったから
そして、車がすごく好きだったから

 

私はガソリンスタンドの仕事が大好きで
今でも大好きだ
冬になると冷えて、特に左足がひどく痛くなったが
「痛い」と言ってもしょうがないので、ホッタラカシにしていた
痛いまま仕事をしていても
それによって足がもっと悪くなるわけでもないので
ほおっておいた

 

25歳くらいのときに障害者手帳を取った、2種4級
左足の機能が著しく低く、歩行は1000m程度
特典!
自動車税免除、自動車取得税免除(車を買うときメチャ得なのだ)
JR乗車券半額、高速道路半額、飛行機25%OFF(いつでも)
駐車違反フリーパス、所得税に控除枠あり
そして
お国からお手当てを貰っている
月に5,000円ちょっと・・・・ (^0_0^)

 

私が障害によって出来ないこと
1.山登り
2.長い散歩
3.スキップ
4.???・・・
もう思いつかない

 

今度はスーパー耐久にまで出ようと思っている
たしかにレースカーを運転しているときには
苦手なクラッチを踏むために、自分の集中力の80%を使っていたり
人がしないこともしている
しかし何とかすれば、何とかなるものなのだ

 

私ごときの障害は
人より足が短かったり、禿げていたり、痩せ過ぎていたり
そんな人間の個体差に比べてもなんら変わらない程度のもの
これが原因で死ぬわけではないし
私の個性の一つの要素でしかない

 

先ほどの話
お国からのお手当て、月5,000円のことだが
役場からの振込みの銀行口座を別にしておいた
ひと月5,000円
それでも、放っておけば
5年で30万円
10年で60万円
20年で120万円
忘れてしまっていれば、知らぬ間にまとまったお金になる
タイムカプセルのようなもの
そう思っていて
「そういえば、あの障害者手当ての口座
もう20年近くなるから、そろそろ100万円ぐらいになってるんじゃないか?」
って聞いたら
「あらっ、あれ水道代にちょうど良かったから、水道料金の引き落としに使ってたよ」
と言った
がっくりである

 

私の障害は水道代程度のものか

 

・・・
私の足、ひどくは無いがそれでもいつも痛い
ある時には、なきたくなるぐらいの時もある
やれないことも、考えてみればもっといっぱいあるのかもしれない
でも、どうしてもやれないと分かっていることは、やりたいとも思わないし
もっとやりたい事が他にいっぱいある

 

障害がこんな程度で終わったのは
お袋が毎日、私をオブって病院に通ってくれたから
そして、親父が必死に働いてくれたからだ
あの両親の苦労がなかったら、私はもっともっとひどくなっていたに違いない

 

障害が重い人を見ると
がんばってるなぁと、しみじみ思う
そして、そのご両親の心の痛みと、ご苦労を思うと頭が下がる

 

でもしかし、本人にとっては
それが自分であるのだし、その自分と付き合っているしかないのだから
それが運命なのだから
かわいそうとは思わない
頭がはげている人を見てかわいそうだとは思わないように
どんなに障害が重い人を見ても、かわいそうだとは思わない
私は、私のことをこれっぽっちもかわいそうだとは思わないから
受け入れるしかないのだから

 

障害が重い人が、自分のことをかわいそうだと思ったら
そのまま不幸になってしまうし
どんなに障害が重くても、どんな人でも幸せになりたいのだから
自分はかわいそうであったりしてはいけない
自分の障害は、私を構成しているただの一要因であるしかない
ただそれだけ
個性の一つでしかない
その上で、あらゆる人と同じように
幸せになろうと努力するものだ

 

障害を持っている人は、持っていない人に比べて
つまり健常者に比べて
幸せになりたいという欲求を明確に持っているため
驚くほど明るく活発な人が多い

 

親を泣かせてまで
おもちゃの山をつくって貰ってまで
ここまで来たのだから、もっとがんばらなきゃと思うのです。

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    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
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