谷 好通コラム

2005年01月16日(日曜日)

1100.頼さんの結婚披露

今回上海に来た大きな目的は、頼さんの結婚式への出席であった。
頼さんは、私たちが上海に来るきっかけとなった人で、
今でも大切なビジネスパートナーの一人である。

 

頼さんは「頼 逢吉」という。
台湾国籍だが、おばあちゃんは日本人だ。
おじさんが日本で病院を開いており、日本との縁は深い。
頼さん自身も5年ほど前まで、約10年間も日本に留学していた。
留学中は新宿のガソリンスタンドでアルバイトをしており、
その時に、
アイ・タックの東京ワンデースクールに参加して、今の縁に繋がる。

 

頼さんが上海に来たきっかけは、
日本にいた時のアルバイト先の石油販売会社が、
上海に合弁会社を作って進出しようとした時に、
日本側の代表として上海に派遣された。
加えて自分のお姉さんが上海の人と結婚していて、その縁もあった。
お父さんとお母さんは台湾にいたが、今は頼さんと一緒に上海に住んでいる。

 

合弁会社の話は、一時停滞しているが、
頼さんは自分で洗車事業を起こして、今ではかなり手広く商売をしている。
私たちとの関係もいろいろ有って、
今回は、上海から南西に飛行機で約1時間にところにある「南昌(なんちゃん)」に、
快洗隊をオープンさせることになった。

 

その南昌には、
1月10日より、刈谷店のマネージャーから
第一営業部販売一課課長に抜擢された“石川誠”と上海の“沙”が、
南昌の快洗隊に張り付いて、南昌のスタッフの訓練に携わっている。

 

私と、頼さんは、この結婚式が終わった翌々日、一緒に南昌に行く事になっている。

 

結婚式の2日後には、もうビジネスの現場に出るのだ。
この出張には花嫁も一緒に来るといっていた。
出張“兼”新婚旅行とはすごい。
頼さんはバリバリのビジネスマンなのである。

 

お嫁さんは、陳(チェン)さんという。
名前は、竹かんむりの下に青という字を2つ続けて書く。
英語がペラペラの才女だ。
英語が得意な人は、英語名を自分でつけており、
彼女の場合は、「ジュディー・チェン」となる。
国営の石油会社の経理関係で課長クラスの仕事をしており、
彼女もバリバリのキャリアウーマンでもある。

 

 

さて、15日に挙行された頼さん夫婦の結婚披露宴。
中国の結婚式とはどんなものか、私たちは興味津々であった。

 

式の会場は、
私たちがいつも泊まっているホテル百楽門大酒店から近いところ。
といっても、百楽門大酒店は一泊400元程度のごく普通のビジネスホテル。
式の行なわれるホテルは、
上海でもトップクラスの品位を誇る“五つ星”の超豪華ホテルだ。
これは、すごいことだ。
同行の上海事務所の所長廣瀬君は、思わず「頼さんお金持ち~」ともらした。
出席者は180名。

 

式は5時半からと案内にあった。
時間通りに式場のホテルに行くと、
会場の入り口で、
頼さんご夫婦が集まってくる出席者に丁寧に挨拶をして、
一緒に記念写真を撮っていた。

 

 

会場に入ると、
そこには10名がけの円卓が16卓と、
花婿と花嫁も座る20人がけのでっかい円卓が据えられている。
とにかく広く、天井の高い、立派な会場であった。
時刻はすでに6時過ぎ。
それでも、まだ八割程度の人が入っているだけで、
まだ始まる様子がない。

 

 

同行の廣瀬君が言っていた。
「5時半開始と書いてあったら、宴会の始まりは早くて6時、まず6時半になるでしょう」
なるほど、5時半とは開場の時間であって、
それから1時間の間に集まってきた出席者とのそれぞれの挨拶があって、
披露宴は1時間後に始まると考えて良いようだ、中国では。

 

そして、6時半
司会が、披露宴の開始を告げ
新郎新婦の入場となる。入り口に注目!
と、新郎の頼さん一人が入ってきた。
巨大なクラッカーが放たれ、紙ふぶきが舞う中、
頼さんはしずしずと入場してから、
すぐに通路脇の祝福の人たちの列の中に一緒に並んでしまった。

 

それから、
新婦のお父さんと腕を組んでの花嫁の入場。
少し進んだところで、
祝福の人の列の中に並んでいた新婦頼さんがスッと花嫁の前に出て、
新婦のお父さんから頼さんが花嫁を受け取る。

 

これはキリスト式結婚式の時の入場セレモニーと一緒だ。
私の自分の娘の時にやったことがある。
あれを披露宴の場でやるとは、お父さんはさぞつらいだろうとも思ったりしたが、
お父さんはニッコニコしている。
大勢の前でやるとかえって、晴れ晴れとしていいのかもしれない。

 

 

新郎新婦が壇上に上がった。
が、壇上には彼らの席はない。
彼らの席は、友人たちに囲まれた中心の大きなテーブルで、
壇上はセレモニーのステージなのだ。

 

来賓が紹介される。
紹介された来賓はその場で立ち上がり、会場の人たちに会釈する。
私も紹介されたが、
名前を呼ばれたら、立ってペコンだけ、これは楽でいい。
紹介された来賓の内、二人だけが壇上に上がりスピーチを行なう。

 

 

それが終わったら、
エンゲージリングの交換、
今度はウェディングケーキカット。
司会が軽妙なタッチで事を進めていく。

 

何を言っているか解らないが、
今度は、ワイングラスで乾杯。
二人が手を交差して、仲むつまじく乾杯をする。

 

セレモニーはどんどん進む。
花嫁の衣装換え。
男の方は衣装換えなんてしない。
それでいいのだ。

 

それでも入場の時は二人一緒で、
シャンパンタワーをやったり、あるいはキャンドルサービスをこなして行く。
このあたりは、
日本の経験の長い頼さんの、日本での結婚式の影響が強いか。

 

余興はプロの歌手が出てきて、歌を聞かせたりしてくれる。
日本のように友達が繰り広げるおふざけの余興はない。
のど自慢もない。

 

クライマックスは、新しい家族の絆を示す時だ。
新郎新婦のご両親4人が、新郎新婦と一緒に舞台の上に上がる。
まず、新郎が新婦のご両親に、新婦が新郎のご両親に“お茶”を、入れてささげる。
それを、お互いのご両親が飲む姿は、これぞ中国~ってところ。
日本では絶対にないシーンで、
ちょっと感動ものであった。

 

その後、みんなでステージに並んで立って、
頼さんがしゃべり、
花嫁がしゃべり、
ご両親がしゃべり、
みんなで、集まった大勢に
お互いの家族がこの縁組をいかに喜んでいるか、うれしいか、
これから先、みんなで、どんなに仲良くやっていくかをとくとくと喋る。

 

家族と家族が、お互いに新しい家族を家族として受け入れるかをいっぱい話すのだ。

 

 

このシーンは、本当にいいなぁ~と思った。

 

中国の人たちが、いかに家族の絆というものを大切にしているかを、
このシーンの中に見たような気がした。

 

この日のスターは、もちろん新婦・頼さんとその花嫁ジュリー・チェンさん。
そして、もう一人の主役は
96歳になった頼さんのおばあちゃんだ。
信じられないほど元気な頼さんのおばあちゃんと、お母さんと、お姉さん。
女三代勢揃いである。

 

 

頼さんはおばあちゃんが大好き。
おばあちゃんも頼さんが大好きである。

 

 

式の終わり際、
本来は日本人であり、日本語の方が達者なおばあちゃんが、
私に言った。
「私はマージャンが大好きなの。今度一緒にマージャンやらない?」
96歳のおばあちゃんから
私は、マージャンのお誘いを受けて、
「・・・・・はいっ、ぜひ今度」としか言えなかった。

 

 

まさか、「私はマージャンが出来ません」なんて言ったら、
この96歳の元気印のおばあちゃんを、どんなにがっかりさせるだろうかと思ったら、
「ぜひ、マージャンやりましょう」としか言えなかったのだ。

 

式が終わって、
出席者を見送る頼さんに、
無粋にも南昌の打ち合わせを、ちょっとだけしたら、
すっとビジネスマンの顔に戻ったのは、おばあちゃんの家系のせいかもしれない。
頼さんの家系、こりゃ、あなどったらエライことになるぞ。

 

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2005年01月16日(日曜日)

1099.シシャモを食う日

大昔、私が小学校5年生の時、
女の子を好きになったことがある。
多分、あれが私の初恋なのだろうと思う。
紀子(のりこ)さんという子。
背は小さく、おかっぱ頭、色黒、面長で、頭の良い子であった。

 

この時の担任の先生はよく席替えをする人で、
何回目かの席替えで、紀子さんと隣になった。
昔は、椅子は一人に一つであったが、机は二人に一つの細長いやつ。
だから席が隣ということは、長い机に一緒に座るということになる。
まさに隣に“一緒に座る”という格好。

 

何のきっかけであったか知らないが、
ふいに、私はその子を異性としてすごく好きになってしまった。
恋をしたのである。

 

恋をしたことは初めてだったので、
自分の気持ちがどうなっているのか良くわからないまま、
とにかくハッピーな日々が過ぎた。
あんなに学校に行くのが楽しみだったことは、
今までの人生の中でない。
息をするだけでも幸せだったのだ。

 

しかし、そんなハッピーもほんの1、2ヶ月。
また、担任の先生が席替えの発表を行なった。
私は祈るような気持ちで、また紀子さんの隣の席になることを願ったが、
しかし、それは有り得ないことであった。

 

初めて女の子を好きになって、舞い上がっている男子を
わざわざその女子の隣に座らせておくわけがない。

 

この時の席替えでは、
紀子さんは遥か遠くに座ってしまい、
私の隣には、私の家の近所に住む男子が座った。
知っている子であり、悪い奴ではない、たしか森田君と言ったと思う。

 

紀子さんは、私より後ろのほうの席に行って
授業を受けている間中、彼女の姿を見ることは出来なかった。
絶対に先生がわざわざそうしたに違いない。

 

私は悲しかった。ものすごく悲しかった。
ハッピーな日々が一転して、不幸のどん底に叩き落された。

 

 

その日の給食のおかずは「チャンポン」
あの長崎名物のチャンポンという意味であるのだろうが、
給食の「チャンポン」は
あの長崎チャンポンとは
似ても似つかぬ別物であった。

 

油っぽい茶色の汁の中に、
スパゲッティーのような麺がチョボチョボと泳ぎ、
ナルトのきれっぱしがほんの少しの野菜と一緒に沈んでいた。
一番嫌だったのは、豚の脂身だらけの薄切りの肉が白く、
細かく千切れて、いっぱい汁の上に浮いていたことである。
ほとんど脂身だけ。
これが、脂っぽい茶色い汁の匂いと妙に相乗効果を出して、気持ち悪いのだ。

 

私は給食を残すなどという贅沢な子ではなかったが、
この「チャンポン」という名前がついている“豚の脂身が浮いた汁”が大嫌いであった。
これだけは、食べるのが本当に嫌だった。

 

 

紀子さんと席替えで別々にされて、
不幸のどん底に叩き落されていたこの日の給食が「チャンポン」であった。
不幸の上に不幸が覆いかぶさってきたようなもの。
最悪であった。
しかし、この日の二つの不幸の内では
紀子さんとの離別の不幸の方が圧倒的に大きかったのだ。

 

紀子さんと別々に分かれた机の上に、「チャンポン」が配られた。
私はそれをじっと見つめているうちに、
なんか情けなくなって、
涙があふれてきて、
ヒックヒックと泣き出してしまった。

 

隣の席の森田君が「どうしたん?」と私を覗き込んだ。
私は「うるさいっ!」と怒鳴った。
隣から掛けられた声が、紀子さんではなく、男の森田君の声であったのが
カンにさわったのだろう。

 

そして、突然
目の前の「チャンポン」をガブガブと食べ始めた。
脂身をそっとどけながら、なんてモンじゃなく、ガフガフガフガフ゛
口の中に押し込んだ。

 

自殺する時に、人が何か吹っ切るとすれば、
きっとあの時のような心境と、行為であったのだろうと思う。
あんなに嫌いだった給食の「チャンポン」を、口いっぱいに頬張ったのだ。
まるで、自殺行為のように。

 

「あれっ?食えるじゃん。これ意外とウマいよ。」
あの時、初めて豚の脂身のウマさを知った。
むさぼるように口に押し込んだ豚の脂身がたっぷりのチャンポンによって、
私は脂身のウマさに目覚めてしまったのだ。

 

私は紀子さんを隣の席から失ったのをきっかけに、
豚肉の脂身のウマさを知ってしまい、
それから、私の食生活の方向性が変わってしまった。
肉、それも脂身がウマいと思うようになって、
劇的に、今の肥満への道が切り開かれてしまったのだ。

 

あの一瞬は、今でも鮮烈に覚えている。

 

 

こんなことを思い出したのは、
久しぶりに女の人に振られてしまったからだ。

 

振られたと言っても、色恋沙汰ではない。
快洗隊刈谷店の中井さんに振られたのだ。
彼女は洗車大好きで、ただそれだけで、わざわざ大阪から快洗隊に応募してきて、
一人で寮に入って、
刈谷店の中でも一番の元気印で働いていてくれる若き女性。

 

「KAISENTAI EYES」の筆者でもある。
私は彼女の文章を読んで、そのきちんとした文章力に驚き、
快洗隊から、キーパータイムスの編集責任者にスカウトしようとしたのだ。
キーパータイムスを毎月発行するのは大変なエネルギーが要る。
今は、私自身が原動力となっているのが現実で、
いつまでもその現状を打破できないでいる事は良くないことだと思っていた。
だから、私の仕事の助手として動いてもらって、
キーパータイムスを作り出すすべを学び取り
それを主体的に進めて行ってくれる存在が欲しかったのだ。

 

中井さんに、それが出来る可能性を見つけ、
?快洗隊の畠中君を説得した上で、中井さんを口説いたのだ。

 

そして、見事に振られてしまった。
彼女の快洗隊に対す意気込みは半端ではなく、
どうしても、快洗隊をやり通したいというのだ。
それは、ある程度予想していたことだが、
さすがに、がっくりである。

 

で、ふとっ
小学校5年生の時、
紀子さんと席替えでお別れした時に、突然、
豚肉の脂身が食べられるようになったことを思い出した。

 

私は、ある理由があって「シシャモ」が大嫌いで、
数少ない食べ過ぎらいの対象である。

 

14日の夜、ある呼ばれていた飲み会で「シシャモ」を試してみたのだ。
突然の思い付きで
「女性に振られた日、苦手な食べ物が、急に食べられるようになった。」を、
試したのだ。。

 

「シシャモ」

 

 

思い切ってガブッと、シシャモに食いついて見る。
口の中にシシャモが思いっきり拡がる。

 

 

思ったより不快感はない。
決して「まずい!」とは感じなかった。
しかし、「あと10年ぐらいはシシャモは食べなくてもいいなぁ」とは思った。

 

後は、とにかく思いっきり酒を飲んで
シシャモを食ったことを忘れようとする。

 

かなり飲んで、抵抗力がなくなった頃、
名古屋一番の繁華街・栄の居酒屋「花あかり」の女将にからかわれる。
私よりたった一歳年上だけなのに、

 

 

私なんざまるで子ども扱いである。

 

 

この後の惨状を、面白がって激写する人たち。
(この人たち会社の社長さんである。)

 

 

この人たちが撮った写真を、一緒にいた畠中が「3万円で買いますよ」とはしゃいでいた。
暴露される前に自分で暴露。谷好通襲われるの図

 

 

そんな私を助ける気の全くない人たち。

 

 

シシャモを食べた日。
それは、素敵な人たちと飲んで騒いで腹から笑った素敵な日であった。

 

 

今は、上海のホテルでこれを書いている。
時計はとっくに12時を回り日付が変わってしまったが、
明日(16日)は、上海での頼さんの結婚式のことを報告しなければならない。
いい結婚式でした。

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    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
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