谷 好通コラム

2005年08月15日(月曜日)

1234.終戦記念日に思う

昨日、ロス アンジェルスから帰ってきた。
五日間の出張であったが、
なぜか今回は体力的にきつかった。
前回の世界一周の影響がいまだに残っていて、
続いてのアメリカ出張はたった5日間であり、
その間はアメリカ国内2時間の時差だけであったし、
今回はアメリカの往復、つまり時差が戻る形だったので
時差での体調にこんなに苦しむとは思わなかった。

 

特に昨日、午後成田空港に帰ってきた時は、
空港で目眩がするし、足が重いし、
頭骨の中で脳みそが120%ぐらいに膨らんでいるような最悪の状態。
帰りのついでにと作ってあった東京での用件をキャンセルして、直接帰ってしまった。

 

今更ではないが、
遠い外国との交流が、単に距離だけのことではなく大変であることを実感している。
地球は大きい。

 

しかし、何十回もの中国、東アジアの国々への訪問、
何度かのアメリカとヨーロッパ行きが、
洗車に対する考え方、ビジネスに対する考え方のみならず、
私自身の価値感をも変えるほどの大きな影響を与えてくれた。

 

日本の中にとどまり、日本の中の状況だけを見て、
日本の中だけで考えていると、
近視眼的な発想にとどまりがちであることも知った。

 

 

 

今日は8月15日、終戦記念日である。
人が人を殺しあう戦争が、日本において終わった日。

 

戦争が存在するのは、
攻撃する側が
攻撃を受ける側の人の事を知らないことが前提だ。

 

民族という薄い血のつながりを持つ一群の人々、あるいは国家が、
共通の敵、つまりある繋がりを持つ一群の人々を持つ事など、
本来的にはあり得ない。

 

人は、それぞれなのだ。

 

日本の人も、中国の人も、韓国の人も、
アジアの人も、ヨーロッパの人も、アフリカの人も、地球に生きる人々すべてが、
一人一人それぞれに違う価値観を持ち、違うものを求めている。

 

それは今も昔も同じことで、
国家を代表すると自認する権力の仕組みが、
その利益のために、ある人々の一群、ある時は国家であり、民族に対して、
攻撃を加える。
それはほとんどの場合、
力が有る側が、より弱い相手に対して行なうもので、
加害者、被害者の関係がここに出来上がる。
しかし、それは国家という権力の仕組み上のことであり、
それにたまたま属している人々とは別の話だ。
人々というレベルで言えば、戦争の中での加害者、被害者という区別は、
国家としての被害者、加害者とくくりの範疇に属しない。

 

被害国の中にも被害者だけではなく、加害者もいただろうし、
加害者の中にも被害者が多くいた。
多分、被害国・加害国の両方のほとんどの人が、
戦争の被害者であった。

 

人は、それぞれに、
その人が、たまたま属している国の立場とは別に、
自分の利益のためならば、
人の不幸をなんとも思わない本質的に加害者的な“奪う”人もいれば、
人の幸福によってこそ自分の幸福が作り上げられると信じている“与える”人もいる。

 

人はそれぞれなのだ。
権力の仕組みである国家というくくりでは、一人一人をくくることは出来ない。
だから、国家を構成する一人一人の人にとっての共通の敵などあり得ないのだ。
だから、国家共通の敵などあり得ない。
民族共通の敵である民族・国家などありはしない。

 

権力の仕組みである国家というくくりの上での利益を理由に、
ある人々の一群である国家や民族を、敵としてくくり、
人々が、人々を、殺すという理不尽な行為が許される理由は、
絶対に無い。

 

一人一人がそれぞれに、
国家が敵とした相手の国家の一人一人の人々を、
それぞれに親しい人として知った時、
その人々を憎むことなど無いだろし、
ましてや殺すことなど出来るわけが無い。

 

私は、何十回と中国を訪問し、何百人という人と会って、
たぶん何十人という人と友人になった。
その中で一人としても私に対する反日感情を受けた憶えはない。
たとえどんな理由であろうと、万が一、日本が中国を国家として攻撃すると言っても、
その友人達を殺す戦争に賛成する気には全くならない。
ましてや、その引き金を引くことは出来ない。

 

一人一人のレベルでは、本来的には、人が人を殺すことが許される戦争などあり得ないのだ。

 

それが出来ると錯覚させられるのは、被害者としての憎しみを、
幼少時からの作為的な教育により洗脳的に刷り込む
(権力の仕組みとしての)国家の行為があることも忘れてはならない。

 

権力の仕組みとしての国家が、
ある一群の人々・国家・民族に対する憎しみによって人々を感情的にまとめ上げ、
共通の敵を造り上げる事によって、
権力の存在意義を強めることは、
大昔からの権力の常套手段である。
このことも忘れてはならない。

 

私たちは、
国家に所属する一人の国民である前に、
一人一人の人間として、
たまたま自分が所属する国家が“敵とした”国家あるいは民族の中に、
一人の人間として友人がいること、
そして、なり得る人が無数にありうる事実を忘れてはならない。

 

権力の仕組みとしての国家が作り上げる“共通の敵”を、
一人の人間として、一緒に憎むべきではない。

 

 

アメリカにおいて思ったこと。
この国は、一つの民族で形成された国ではない。
あらゆる人種と、あらゆる民族が、
あらゆる文化と歴史と宗教をもって、
あらゆる地域から、
“移民”という手段で集まってきて造り上げた国だ。
だから、民族的、あるいは国家的な憎しみを権力の手で作り上げる事が出来ない。

 

ならば、結束力が無いかというと、
むしろ逆なのだ。
街のあちらこちらに「星条旗」が掲げてある。
アメリカ市民が自主的に掲げた星条旗だ。
国家が出させたものではない。
彼等のこの強い結束力はなんだろうか、少なくとも「民族」ではない。
「宗教」でもない。

 

多分ではあるが、
人間が、一人一人それぞれが、
一人一人それぞれで在り続けることが出来る仕組み(これを自由と呼んでいる。)
そんな仕組み、国家であるアメリカ合衆国を、
一人一人が、それぞれで在り続けることを
それが人間本来の姿であり、愛するという意味なのであろう。
これを私は感動を持って、見た。

 

ならば戦争をしてもいいのか、否である。
アメリカは世界中で一番戦争をしている国。
名目は「自由を守るため」この一点だ。
しかし資本主義の最たる国家であり、経済界の力が強い国であって、
アメリカの戦争は資本家の金儲けのためだという批判もあるが、
少なくとも、戦いに出て行く若者は、
「自由を守るため」「家族を守るため」に、遠い戦争の地に出て行くのだろう。
少なくとも、「自由のため」が、
実質的にも戦いの理由になければ、
アメリカは戦争をしないし、出来ないであろう。

 

それでも戦争はすべきではない。
すべきである戦争がこの世から無くなることを心の底から願う。

 

日本の第2次大戦において、若者たちにおいても、
多くが「家族を守る」の一念であったそうだ。

 

あの戦争の何が間違っていたのか、よく考えなければならないと思う。

 

8月15日、
日本から、人が人を殺す戦争が無くなった記念の日に、
私の稚拙ながらも考えを書いた。

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2005年08月15日(月曜日)

やっと参戦記書き終わりました

実際のレースが終わってから、はや1週間。
頑張って早く書こうと思って書き出した参戦記も、
途中でアメリカ行きがあって、
申し訳ないと思いながらも、思うように書けなかった。

 

盆休みの最後の日、
日本に帰ってきて、やっと書き終わりました。

 

どうか読んでやってください。
面白いですよ。

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    代表取締役会長兼CEO

    谷 好通

    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
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