谷 好通コラム

2007年12月18日(火曜日)

1800. 18回目の100話

今回で1,800回目のコラムになる。
いつもかなり文章が長くなってしまうので、
多分、1回に500字以上は書いているとすると、
1,800×500字で900,000文字は書いていることになる。
この他にもかなりの文章を書いているので、
きっと1,500,000以上は文字を書いているだろう。

 

今日は、日本語について深く考えさせられた。
日本語はきわめて難しい、間違いなく世界で一番難しい言語だ。

 

 

意味を表す文字、表意文字である「漢字」に加えて、
音を表す表音文字である「ひらがな」「カタカナ」があり、
それが複雑に組み合わさることによって意味がまるっきり変わってしまう。
しかも、漢字には音読みと訓読みがあって、その組み合わせもある。
世界一難しい文字であると言われている所以だ。

 

もっと面倒なのが、言葉で
話し言葉と、書き言葉があって、
たとえば私の文章では「・・・である。」「・・・なのだ。」をよく使うが、
話し言葉で「・・・なのだ。」というと、何かを押し付けている言葉に聞こえてしまう。
文章をいつも書いている「物書き」は、
かえって話し言葉が苦手な場合がある。
逆にいつも話しているだけの人は、書き言葉がまるで出来ない場合も多い。

 

 

さらにややこしいのが、
この狭い日本に、何十種類もの方言があり、
共通語と思われている言葉でも、大阪、名古屋、東京で使い方が意外と違う。
たとえば中部地方で「えらくエライ。」と言えば
「すごく疲れた。」という意味であり、
大阪、東京、その他の地方では「偉く偉い」となってまったく通じない。
さしずめ広島弁ならば「ぶっちくたびれた。」となるか。
また「いる」という意味で、中部地方では「見える。」というがこれも方言であるそうだ。
(私も数年前に初めて知った。)

 

かのように日本語は、
まさしく世界一複雑かつ難しい言語なのである。

 

おまけに、難しさの極めつけは
話し言葉と書き言葉の両方に、
「標準の日本語」に加えて「丁寧語」「敬語」「謙譲語」の四種類の言葉あり、
実に8種類の日本語の使い方があり、
相手が、身内、目上、部下、友達、お客様によって、複雑に使い方が違う。
その使い方は複雑怪奇であり、現代の日本語でははっきりした区別さえなくなりつつある。

 

たとえば、「来る。」という言葉では、
書き言葉も話し言葉もだいたい同じで
お客様に対する敬語では「おいでになる。」「来られる。」「お越しになる。」
丁寧語では「来ます。」
謙譲語は自分の行動を言う時に遣うので「来させていただきます。」

 

たとえば、「いる」ならば、
敬語では「おられる。」
丁寧語では「います。」
自分の行動を言う謙譲語では「いさせていただいている。」とでもなるのか。
自分の立場と、相手の立場、そして話の上で対象になっている人の立場、
そのそれぞれが違うと理解しがたいぐらいに複雑になる。
そんな面倒な使い分けを一切せずに済むのが、
いるかいないかを答えもせずに、
やおら「はい、お待ちください。」と言ってしまうことだ。
どんな相手が、どんな立場の人間がいるかどうかを聞いても、
「ハイ、お待ちください。」と言ってしまえば、間違うこともないのだろう。
どんな会社に電話をかけても、90%以上の場合こう答えられてしまう。
我が社でも私が
「ご苦労様です。谷です。○○君はいますか?」と言うと、
ほぼ「ハイ、お待ちください。」と来る。
「いるかどうかを聞いているのに、答えずに、やおら”お待ちください”はないだろう。」
と思うこともあるが、
今はもう、そんな細かいことは考えないようにしている。
この場合「はい。」が”いる”と言う意味なのだろう。

 

 

日本語の「ハイ」は英語の「YES」とは意味が違い、「ハイ、」肯定を意味せず、
相槌に過ぎない。
英語ならば「YES PLEAS」は「はい、おねがいします。」だが、
断る時はかならず「NO THANKYU」、
直訳すれば「いえ、ありがとう。」になるが、これでは要るのか要らないのか分からない。
「NO THANKYU」は、「いえ、けっこうです。」と訳すのが正解である。
同じように「はい、ありがとう」を「YES THANKYU」とは言わない。
ハイは、肯定のYESではないのだ。
「ハイ、要りません。」でも日本語としては間違っていないのだから。

 

でも今は、「ハイ、お待ちください。」で、十分である。
そんなことにいちいち目くじらを立てていたら、何も始まらない。
それでいいのである。
日本語は徐々に変わりつつあるのだ。

 

しかし、どうしても抵抗がある言葉もある
今、「そうですね。」という言葉が無用に使われている。
「そうですね。」は肯定ではない。
「どう、今日は忙しかった?」と聞いた時に、
「そうですね。」とだけ答えられたら、
「そうですね。すごく忙しかったです。」なのか、
「そうですね、まあまあでした。」なのか、
「そうですね、大して忙しくありませんでした。」なのか、
そのいずれであるのかさっぱり分からない。
「はいっ」と同じように「そうですね。」は単独では使えない言葉なのだ。
ましてや「はい、そうですね。」と重なったのでは、もっと分からなくなる。

 

もう一つどうしても気になるのが、
外食のフランチャイズチェーンで、
注文した品物をスタッフが持ってきた時に
「お待たせしました。こちら○○○○の方になります。」という言葉。
「○○○○の方」という言い方も間違っていれば、
「・・になります。」も間違っている。
これが重なるともうイライラっとするのだ。

 

ついでにもっと耳障りなのが、
最近やたらと使われる「ん」
「・・・やるんで」「・・・と思うんで」「・・・するんで」という言葉、
「・・・やるので」「・・・と思うので」「・・・・するので」が正解で、
「の」が「ん」にいつの頃からなったのか、
テレビのアナウンサーまで、「・・・ですんで」と言いはじめてしまっているので、
これはもうすでに、日本語として認めなくてはならなくなっているのだろう。

 

日本語はかくも難しく、
日本人で正確に英語を話せる人がいても、
英語圏の人で、どんなに日本語がうまくても、
どんなに日本に長く住んでいる外国人でも、
私たち日本人が聞いて、違和感なく丁寧語、敬語、謙譲語を正確に
正確な発音で話せる人が皆無なのは、
いかにも日本語が複雑で、難しく、困難な言語である証拠であろう。

 

しかも、テレビが日本語をむちゃくちゃに混乱させている現代、
正しい共通語(東京弁)が、日本に伝統的に生き残る可能性は、ほぼない。

 

また、
Webのような公の場に出す文章で一番難しいのは、
読んだ相手がどのように感じるかを思いはかることだ。
いろいろな立場の方が、いろいろな考え方を持っていて、いろいろな価値観を持っている。
そのどんな人にも読み心地がいい文章など書くことは出来ないが、
少なくとも誰かを傷付けたり、侮辱し、
誹謗中傷するようなことは書いてはいけないと思い、注意をはらって書いているつもりだ。
相手が企業・団体である場合はまま批判することもあるが、
少なくとも個人の攻撃になるようなことは、
感情が高ぶったりしても、決して書いてはいけないと思っている。

 

声はその場で消えるが、文字は消えない。
一度書いてしまったらそれは事実としてずっと残るからだ。
また大切なことは、
声には感情がこもるので、同じ言葉でも許せることがあっても、
文字になってしまうとそれは冷淡にも事実だけが残る。
たとえば「バカヤロウ」と、
声で発する場合は言い方次第で親しみを込めた言葉にすらなるのだが、
文字で書いてしまえば、侮蔑と攻撃だけを表す言葉となる。
だから文章として文字を書くときは、
相手がどのような気持ちの状態であるかも分からないし、
どんな感情を持って読むかもしれないので、
十分に気を使い、気を配って書かねばならない。

 

 

中国では難しい漢字を大胆に省略し「簡体文字」を作って、公式な文字とし
中国全土の文盲率を下げるために全土に広げた。
ひょっとしたら、日本語も話し言葉と書き言葉を一緒にして、
丁寧語、敬語、謙譲語も統合した、簡略日本語なるものが広がるのかもしれない。
もちろん、その中には「スタンス」とか「ベーシック」とかの
日本発音の英語も正式に日本語として混じっているに違いない。
エントロピー熱力学第二法則のように。

 

そんなことを考えさせられた今日であった。

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    代表取締役会長兼CEO

    谷 好通

    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
    読めば読むほど元気になること間違いなし。・・・の、はず。

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