谷 好通コラム

2008年01月20日(日曜日)

1825.せっかく生まれてきたのだから

人間、この世に
生まれてきたからには、
自分が生まれてきた目的と意味を知りたいし、
もしその意味が解れば、それを実現したいと願う。

 

自分が生まれてきた意味とはなんだろう。
一体、目的とはなんだろう。

 

「楽しむため」か?
確かに人生は楽しいし、人生を楽しむといえばカッコいいし、みんながあこがれる。
しかし「楽しむため」に私は生まれてきたのか?
人は楽しむために生まれてきたのか? それは違うだろう。
楽しむことが目的ではないだろう。

 

飯を食うことは楽しいし、
働くことも楽しいし、遊ぶ事も楽しい、愛することも楽しい、学ぶことも楽しい。
苦しいこともあるかもしれないが、それを乗り越えたところに必ず楽しさがある。
そういう意味で生きることはすべてが楽しいと言える。
人生は楽しいが、
楽しいことが人生の目的ではないだろう。
楽しさはその過程であり、結果であろう。目的ではない。

 

生きる目的とは、
むしろ、
人生の目的は苦しみの中にあるのかもしれない。

 

あるいは、人生も、他の動物のように繁殖が目的ならば、
無責任に子種を撒き散らすプレイボーイが人生の最も成功者ということになるが、
誰もそんな情けないことが人生の目的であるとは思っていない。
人は精神を持っている生き物であり、
人の精神は繁殖活動の結果ではなく、脳内活動の結果だけでもない。
人の人たる所以は、その精神にあるのであって、
その肉体にあるのではない。だから生きる目的とは、少なくとも“種まきではない”。

 

人の生きる目的、意味とは、
人が人たる所以である精神の中にあるとするならば、
生きている間に勝ち得た社会的な地位でもなければ、
富の大きさでもないだろう。
そんなものはただの結果であって、目的であるはずがない。

 

自分が生きてこの世に生まれた意味は、
人が人たるその所以の中にあるはずだ。
いかに生きるか。
自らの人が人たる所以の中で高まり、
人と人が作り上げる社会の中で、自らのなすべき使命を実現することなのだろう。

 

しかし、それが家族のという範囲の中での社会でも意味はあるのかもしれないが、
それは、個人と社会の狭間の単位であって、
少なくとも、家族という単位の中に留まるならば、個人の範疇に留まるのと同様であろう。
たとえば人が使命と言うものを持っているとするならば、
それは、もっと大きな世界の中でのことであるはずである。

 

ましてや自らの人生を、
損得勘定の上でしか考えることが出来ないとするならば、
それは、与えられた人生の意味とはまったく違う所での価値観であると言わざるをいない。
いちいち損得勘定で生きることは、
それこそ、生きると言う意味の中では陳腐に過ぎないことは間違いない。

 

我が生きる意味がどこにあるのか。
たぶん、・・・・

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    谷 好通

    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
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