谷 好通コラム

2008年03月28日(金曜日)

1878.トマトはトマトとして美しい

あくまでも個人的にであるが
私はお化粧というものがあまり好きではない。

 

化粧とは「化け装う(ばけよそおう)」と書くが、
自分の好みで服装を選んだり、
好きなヘアースタイルにしたり、
素地を活かしたほんのりのお化粧は「装う」ことであって、
「素の自分」を、季節とかシチュエーションに合わせて表現するということを
「装う」と言うのではないだろうか。
対して「化ける」とは、
「素の自分を隠し、違う自分に化ける」ことであって、
ちょっと違うのではないかと思うのだ。

 

あくまでも私の個人的な偏見ではあるが、
まつ毛を黒い樹脂で固めて、まつ毛を濃く見せるのは不自然だし、
まぶたを青く塗るのはやっぱり変だ。
ましてや目の周りが一周ぐるっと黒いのは、まるで別の生き物の目のようである。
最近流行りの唇がプルンプルンしているのは、
その成分のシリコンが富山の「げんげ」のようだし、
素の唇のように粘膜を通して血の色が透き通って見える「赤」には生命を感じるが、
真っ赤がごってりと塗ってあるのは不自然。
ピンクだって顔料っぽいのはお菓子のようで、
ましてや灰色とか茶色っぽい唇は非生物的に感じる。
肌の色がまっ白は顔料の鉱物を感じさせるし、
それが肌色であっても、褐色でも、
皮膚の上に何かを塗り被せていること自体が、
息苦しそうに感じられ、あまり好きではない。
眉毛を抜いてほっそりと整えるのは、それだけで不自然だし、
特に男の子が自分の眉毛を整形するのは好きになれない。
みんなテレビに出てくる若い女の子や男性を美しさの基準だと思ってやしないだろうか。
あれは、
マネキンがみんな同じ顔であることと同じ意味でしかないのに。

 

 

お化粧は
「自分の顔が持っている欠点を補って長所を強調するその人のためのもの。」
と聞いたことがある。
それはそれで理解できるような気もするが、
その人が持っている欠点とは、
何を基準しての欠点なのだろうか。
その人は、その人であってこそ、その人である価値があるのであって、
一人一人に、すべて同じく、人としての価値があるのは、
その人がその人であるからこそではないのか。
みんなが同じような顔になることとは、全く意味が違うのではないか。
欠点としているのは、
コマーシャルベースの標準に比べて“欠けている点”としているだけで、
人がもともと持っている欠点などありはしないし、
極端な話、それが身体障害に結びついていたとしても、
それは欠点ではなく、
その人の持っている個性の一つでしかないのだ。

 

ましてや、
女性の美しさ=若さ。老い=醜さではない。
そういう一元的な切捨ては、
生殖的な本能の部分がそう感じさせているだけで、
人としての価値とはまったく関係ない。

 

その人は、その人であることが、一番美しく、
低い鼻も、とんがった鼻も、釣りあがった目も、下がった目も眉も、
ちっちゃい目も、細い目も、もじゃもじゃの眉毛も、うすい眉毛も
でっかい口も、分厚い唇も、うすい唇も、
とがったアゴも、丸いアゴも、
みんな、その人のものならば、
その人として、必ず美しい。
みんなが化けて、
みんな同じような眉毛とまつ毛で、
同じような目で、みんな鼻筋が通っていて、プルンプルンの唇で、
みんな同じよう顔ばかりになって、
テレビに出ているような顔ばかりになったら、なんてつまらないだろうと思う。

 

それに、化けることで違う自分にならないと、
人に自分を見せられないとしたら、
それはとても悲しいことで、その人が幸せであるとはなかなか思えない。
その人は、その人としての価値を持っているのだから、
違う自分になりたいと思う必要は、実はないのではないか。

 

お化粧については、
これはあくまでも私自身の好みの問題であって、
お化粧をがっちりしている人の方が好きな人もいるし、
その人がおかしいとか悪いというものではない。

 

そしてもちろん、
仕事上でのお化粧は「ユニフォーム」と同じような意味を持ち、
「化ける」とはまったく違う意味で、
社会で働く上での「マナー」とも言える。
それはそれで十分に意味がある。

 

そうであっても、やはり、
コマーシャルベースの作った美しさに惑わされて、
自分の持っている良さを見失ってはいけないとは思うのだ。

 

本当の自分の姿とは、
歳取った時に、
その人がどんな生き方をしてきたのかが一つ一つの証になって、
その人の人生を表現しはじめた時、
素材として持っていた顔と相まって、
本当のその人を表現するようになるのではないか。
ああ、この人は幸せな人生であり、
心の豊かな人生を送ってきた人だと思わせられるシワだらけの美しい人を、
私はたくさん知っている。
人を愛し、人を想い、素直に学び、
十分に生きてきた人は歳を取ってから本当に美しくなる。

 

色が白くても、鼻が高くても、シワがなくても、
目が大きくパッチリしていても、まつ毛が長大でも、
歳を取ってくると、
それまでの生活の中で積み重なった妬みとか憎しみなどが、
その表情に深く刻まれ、
とても不幸を感じさせられる人もいる。
一度自分と違う自分に化けると、
それからもずっと化け続けなければならないのも辛いことだ。
本当の自分と違う自分であり続けるには大変なエネルギーがいるであろうし。

 

 

もっと広い意味で、
現在の自分よりもっと良くなりたいと思う気持ちは、
あるべき向上心であり、
そうなろうと努力することは素晴らしいことではあるが、
間違っても、
「とりあえず、成りたい自分に化けて、人からそう見られるようになればいい。」
と考えたならば、それは向上心でも何でもなく、
ただの嘘つきでしかない。
たとえば、
セレブになりたいと思えば、
とりあえずセレブに見られるように
セレブたちが着ているようなものを着て、
セレブたちが持っているような物を持って、
セレブのように振舞い、セレブに化けたとしても、
そこには何の満足感もないし、
ふと省みてみれば、化けている自分が惨めであるだけだろう。
それに、化ける道具なんて大体が決まっているので、
逆に、自らが自分の化けの剥がしているようなことにもなる。

 

その人は、気持ちとしてセレブになりたいと思ったとしても、
その人のもともとの価値は、
セレブでなくても十分にあるのだから、
本当は、セレブなんかに化けなくてもいいのだ。
逆に、化けたりするから、
その人の持っている本当の価値が見えなくなって、
セレブどころか、偽セレブという惨めなだけの情けない存在にしてしまう。
だいいち、セレブなんて、化ける価値すらないどちらでもいい存在なのだ。
自分の人生を充実して送っている人に、
いかにも「私はセレブです」なんてカッコしている人は、まず、いないだろうから。

 

会社のカレンダーに、あいだみつおの言葉が書いてあった。
「トマトがトマトであるかぎり それはほんもの
トマトをメロンに見せようとするから にせものとなる」

 

これから洗車を大きな可能性のある事業とてして考えるならば、
やはり、あらゆる意味で本物でなければならない。
「看板」だけの洗車のニセプロであったり、
実は、副業としてしか考えていない「ニセ専門店」であったり、
形だけ真似たニセショップでは、成功することはほとんどあり得ないのではないか。

 

 

83年を苦労し続けたこの人を、私は本物の美しさを持った人だと思った。

 

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    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
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