谷 好通コラム

2010年01月24日(日曜日)

2409.人にとって暗闇の持つ意味

田舎の夜道を走って「怖い」と思った。

 

道路は片側二車線で完全に舗装されており、
なんら怖い道ではないはずだが、
夜中に走ると真っ暗で、
ライトを遠目にしてもなお前方の道が暗く感じるのは、
街路灯がないからだろう。
相変わらず安いレンタカーを借りたので、
ライトが暗いせいもあるが。

 

しかも、道路が暗いだけでなく、
道路の周りは山や畑が続き、夜のそこは真っ暗な闇があるだけで
走っていてどこを走っているのかさっぱり分からない。
NAVIがあるから不安ではないが。
暗闇の中を走るのを、怖いと思ったのだ。

 

普段、私が走っている道には、表通りならば必ず街路灯があるし、
わき道に入っても、たいてい民家があるので真っ暗ではない。
そういう道に慣れているので、
真っ暗な道を走ると、慣れていないから、怖いと感じるだけなのだろう。

 

 

たまに田舎に行くだけなので、
田舎のゆったりとした風景に憧れ
「こんなところに住みたいなぁ」と思ったこともある。

 

田舎の親戚の集まりでは、
若い人が年寄りをうやまい大切にしていて、
住んでいる人たちみんながお互いに丁寧に挨拶を交わす姿は素晴らしく、
こんな人たちの中で生きていたら素晴らしいだろうなぁとも思う。

 

 

しかし、
今回、暗い夜道を怖いと感じたことから、
都会と田舎の根本的な違いがどこにあるのか、一つ、気が付いた。

 

 

昔、何十年も前、
私たちがまだ生まれていないころ、
山の中の田舎にはまだ光がなかった。
あっても、ランプの灯りぐらいで、家の中の一部分を照らすだけ。
家を出れば、月明かりがなければ真っ暗闇。

 

人間は昼行性の動物であり、満月の夜以外はまったく目が利かず、自由が利かない。
余程の事がなければ誰も外に出ることは出来ず、
夜はじっと我慢して家にいるしかないのだ。
子供は親の言うことを聞き、
妻は夫の、あるいはお舅(しゅうと)である家長の言うことを聞くしかない。
季節によっては、外に放り出されることが、すなわち命にかかわることもある。
人は生きていくために”家”に属していなければならないのだ。

 

また、家は、村という社会に属していなければ成り立たない。
田畑に水を引かなくてはならないし、
村が属する寺社は人々の精神的な支えである。
隣人が嫌いでも、親から継いだ田畑ごと引っ越すことはあり得ず、
また、農作業や普段の生活では助け合わなければ出来ないこともある。
否が応でも隣人のみならず村中の人達と折り合いをつけながら、
うまくやっていかねばならない。

 

人は夜、暗闇の恐怖の中で、
家族が家の中に寄り添いあい、親は子供に、家に属することを教え、しつけ、
人々が助け合い生きていくためのルールを”しきたり”として教えた。
村とは人間たちが生きていくために寄り添い、
助け合っていくための社会の単位であり、とりわけ家とは“社会”の最小単位であった。
人はほかの人を大切にしなければならないし、
家はほかの家を大切にしなければならない。
寄り添い、助け合うために大切にしなければならない。

 

「田舎とは、助け合って生きていく所であり、
自分が住んでいる社会の人と、
好き嫌いにかかわらず、キチンと付き合っていかなければならない所。
自分のワガママよりも、地域の社会の中で折り合っていく所。
だから、相手のことを思っていなければならず、つまり優しくなければならず、
時には我慢もしなければならない。
だから、ほかの人から優しくしてもらえるし、社会が個人を大切にしてくれる所。」

 

そんな田舎にも電気が来て、
スイッチひとつで家全体が明るくなって、
自動車が普及して、夜でもいつでも、自由にどこにでも行けるようになった。
しかし、田舎にいまなお、
人々が助け合い、
お互いを大切にする文化が存在するのは、
田舎に、山々があり、田畑があって、
いまだ、きちんと暗闇が存在しているからではないだろうか。

 

 

都会、とりわけ現代の都会には暗闇がない。
夜でも家の外にも光がいっぱいあって、明るい。
光だけではなく、人間も、物も、何でもある。
テレビも24時間やっていて、友達ともいつでもメールで話が出来、
外に出れば、近くにはほとんど必ずコンビニストアがあって24時間営業していて、
お金さえあれば何でも買えるし出来る。
子供たちにとって”夜”は怖いものでもなんでもなくなった。
親の言うことを聞かねばならない理由は、必然性としてまったくない。
生きていくために助け合う必要もなくなった。
人がお互いを大切にする必要性もない。

 

「都会とは、助け合わなくても生きていける所であり、
好きな人、気に入った人、都合のいい人たちと付き合っていけばいい所。
自分のワガママでいても許される場所。
だから他人に優しくなくても、許されるし、我慢することもなく、
しかし、他人から優しくされることもなければ、我慢されることもない。」

 

 

人々は昔、
田舎で、生きていくために家に属し、
家は村に属し、社会の中で、寄り添い、助け合うために
人々はお互いにお互いを尊重し、大切にした。
相手のことを思う気持ち、つまり優しさを持つ必要があった。

 

しかし、
これは、ある意味では”束縛”であるとも言える。
暗闇の中、夜外に出られないのは束縛だろう。
人は家に属し、家は村に属し、
その結果、社会の中でお互いに優しくなければ生きていけないという”束縛”である。
自分勝手なワガママであってはいけないという束縛であり、不自由である。

 

ひょっとしたら、
人間の文明の進化とは、豊かさとは、
この束縛、不自由からの解放であるのではないだろうか。

 

自分勝手なワガママであっても生きて行ける自由であり、
人々が家に束縛されず、家が社会の中に束縛されず、
お互いがお互いのことを思い合わなくても、
優しくなくても生きていけるという開放であり自由であるのではないだろうか。
暗闇からの開放であり、自由。

 

我々は自由を得た。
暗闇から開放されたのだ。

 

しかし、その代わりに、
人のもっとも大切なものを失いつつあるのかもしれない。

 

自然の中で、夜の暗闇に束縛され、
お互いが寄り添い助け合って、
自然の摂理の中で生きてきた人間が、
強力な文明の光の下で、
暗闇から開放され、自由に行動し、生き、
自由に、自分勝手に、誰にも優しくなく、
その結果、大いなる自然の摂理を破り始めているのが、今なのかもしれない。

 

今、人類の未来を考える時、
人間に必要なのは、怖い暗闇なのかもしれない。

 

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