谷 好通コラム

2022年01月16日(日曜日)

01.16.谷 好通の履歴書・KeePer出現まで

突然ですが、「谷 好通の履歴書」を書くことにしたので、,

起業してからKeePerが出現するまでの約10年間を、まず書いてみました。

 

1952年3月18日 誕生

愛知県大府市共和で、父・名機製作所の工場勤務の谷武と、母・谷えつの間に生まれる。

 

1956年 (4才) ポリオに罹患

当時、日本国中で猛威をふるっていたポリオ(脊椎性小児麻痺)にかかって、

小さな母が体の大きな私を背負って隣町の安生厚生病院に約1年間通い、

左足膝下が委縮するだけで済んだ。しかし当然、一生ビッコは付きまとう。

身体障がい者3級、小中高での短距離走、マラソンは常に全校のビリ。

しかし子を気遣う親に反発、高校の時柔道初段取得。

立ち仕事のガソリンスタンドを選択。40歳過ぎからカーレースにのめり込む。

65歳過ぎて足首の骨の変形が進み、半車いす生活。

 

1959年9月(小学校二年生) 伊勢湾台風に罹災

父の首にぶら下がって九死に一生を得る。

 

1964年~1967年 名古屋市南光中学校

最初は成績優秀の良い子であった。が、いじめられっ子に。

しかし一年生終業式の時に、いじめっ子を呼び出して、決闘して勝つ。

それから二年生・三年生と先生からの評判は極めて悪いが、友達はすごく多し。

この時に谷好通のコアが出来たのかもしれない。

 

1967年~1970年 名古屋市桜台高校

進学校の高校に進むも、すぐに学生運動に没頭。ほとんど勉強せず。

大学に進学するもほとんど行かず、バイトばかりで退学。

 

1970年 (18歳) ガソリンスタンドに就職

24時間営業のトラックステーションの深夜勤務(給料が一番高い)に就く。

この会社はかなりヤンチャで激しい新興の会社であった。

 

1971年 (19歳) 会社の社長に見込まれ小さなガソリンスタンドの店長に。

その小さな店舗・曙給油所は、すぐに安売りで売り上げが倍増する。

 

1972年11月 (20歳) 結婚 1973年3月(21歳)長男産まれる。

1973年(21歳) その会社の本社、大きなトラックステーションの所長に

 

1979年(27歳) 考えるところあって退社。

最初の会社はヤンチャであったが、仕事での実力が物言う会社であった。しかし、ヤンチャであったが故に時勢についてゆけず、退社した翌年に倒産した。

 

1979年(27歳) 固い大会社(大きなガソリンスタンドの会社)に入社する。

~1985年  それから三社を経験、学歴と人脈社会の軋轢を思い知る。

固い会社は私にとって全く面白くなく、つまらない日々が続いたが、

私が入社した翌年、競合していた前職の会社が倒産したので、そのお客様を新しい固い会社の方へお客様として引っ張って、私の店の成績が飛躍的に伸びた。それで私の評価も上がった。

が、その大きな固い会社ではどんなに評価が上がっても、高い学歴がなく現場に属する者はどこまで行っても現場のブルーカラーという人種であり、高学歴

を持った事務職・ホワイトカラーという人種とは、どこまで行っても相いれないものだ。特に有益な人脈・血脈を持った人とは身分の違う世界の人であるということをいくつかのエピソードの中で、絶望的に知った。

現場主体の価値観は、独立して起業するしか実現できないと決意。

 

1985年8月(32歳) 株式会社タニ発足、共同石油高津波SSスタート

紆余曲折がありながら独立する店舗を愛知県刈谷市に借りることが出来、

私と妻と従業員の三人でスタートした。

ガソリンスタンドの運営は自信があり、じきに成功し、12月にはガソリンと軽油・灯油で300kl、油外収益150万円で、しかも3人の従業員とアルバイト少数、私は年間362日勤務で、それはものすごく儲かった。4年前に買っていた中古住宅のローン(1200万円)を発足の翌年早々に全額返済した。

 

1986年 しかし、増員しても従業員は続かず、相棒倒れる。

この大繁盛店の中で私は自信満々の絶対君主のようであった。

ああしろ、こうしろ、と命じ、それは相棒である妻にでも同じで、むしろ酷かったかもしれない。そんな妻が具合悪くなって病院に行き、先生に「今日すぐに入院しなさい。すぐに手術をします。」と言われたと帰ってきた。

私は若い子や妻に誰にでもすぐに怒鳴って、新しい若い子が入って来ても辞めてしまい、中々増員できず、それで相棒の妻に無理が行ったのでした。

私はそんなひどい状態を、初めて自分で気が付いてひどく後悔しました。

それから私の何かが変わったのでしょうか、徐々に増員が出来始めて、社員を大切にする会社らしい会社になっていった最初の事です。

 

1987~90年 実績も出来、増員も出来、2店目用地を探しだす。

実績も上がり、資金も出来、増員も出来てきたら二店目を造るしかありません。

この四年間は仕事も順調で資金的にも余裕があり、ちっぽけな表彰も受けて、

元売りからの接待も受けて、仕事の居心地も良くて平和であり、世の中には一店舗で終わる会社が多いが、きっと、こんなぬくぬくの布団の中の居心地から抜け出せなくのだろう。

しかし、つまらない。

猛烈につまらなくて、次の店舗の土地探しを必死でやっていた。それでやっと見つけたのは1号店から南に3km程離れただけの松坂町132坪の土地で、交通量からみてもマーケット的にも、今だったら絶対に手を出さない土地です。

しかも、この土地を買ってしまったのです。先がまだ見えない内から始まる6,600万円もの借金の返済。

でもこの無茶が無ければ、今のKeePer技研は絶対にあり得ない運命的なこの132坪の物件だったのです。

 

1991年 ガソリンが扱えない。仕方なく洗車とコーティング。

無理して買った132坪の土地だが、もう一つ厄介な大きな問題があった。

その頃の日本にはガソリンスタンドの総量規制があるが(日本国中のどこかのガソリンスタンドを1店舗閉めなければ、新ガソリンスタンドを開くことが出来ない)、販売力のある㈱タニが借金までして土地を買い、新しいガソリンスタンドを造ろうというのだから、元売りさんは、全国のどこかのあまり売れないガソリンスタンドを閉めてくれて、㈱タニにガソリンスタンドの権利を造ってくれるだろうと”甘く”考えていたが、もちろん世の中はそんなに甘くはなく、

誰もガソリンスタンドを閉めてはくれなかった。

しかし、総量規制は時限で規制が切れるのは1年間。

ガソリンスタンドの施設を造ってしまっても、1年間、ガソリン無しで運営すればいい訳で、つまり他の事をやりながら1年間食いつなげば問題ない。

それが、ガソリンスタンドで起業した会社が、コーティングの会社として大きく発展した元々の原因だったのです。

つまり、谷 好通が世の中を舐めた所から始まっているのです。

 

1992年月1月 洗車コーティングの専門店「クリーンベースウィズ」

ガソリン無しのガソリンスタンドで一年間食いつないでいくには何か武器が要るので、当時流行り始めた「ポリマーコーティング」を横浜まで習いに行くことにしました。一日おきに日帰りで横浜まで行く大変な時期です。

習ったのは、ポリッシャーを使う「塗装の研磨」と「ポリマーコーティング」。

横浜のモービルクリーンベース高木専務から学んだ教訓は

「販売にしろ何でも、売るのではなく、教えることが最強だ。」

洗車とポリマーコーティングの専門店「クリーンベースフィズ」が開店した。

 

1992年10月 ソアラに乗った娘さんは、どうしても車に近づかなかった。

「研磨」と「ポリマーコーティング」は、魅力的な美しい商品であった。

しかし、7万円位かけてまで欲しがる人は、一部のマニアックな人だけだった。

ある時、地元のちょっとした工場の社長の娘さんが高価な「ソアラ」に乗って、

当時「ハードシールド」という研磨+ポリマーコーティングを注文してくれた。

滅多に売れないハードシールドが売れたので、私たちは張り切って預かったその夜一晩かけて磨きに磨いて、寸分の傷まで無いように全神経を傾けて磨いた。

我ながら見事に磨けたそのソアラにポリマーコーティングを塗って仕上げ、

昼前にソアラを取りに来られる娘さんを待った。

 

午前11時ごろに来られた娘さんに磨き上げた極上の肌を見ていただこうと、

「どうぞ近づいて見て下さい。この辺なんかぞくっとするような肌に仕上がっていますよ。」と言って、塗装の肌を示すが、お嬢さんは、車からだんだん離れて、全体を見渡すように車全体を見た。

「そんなに離れたらせっかくの磨き上げた肌が見えませんよ。」と言うが、

娘さんは「いえ、充分キレイですよ。ものすごくキレイです。」と、車から離れる。

その時私は「まぁ素人だから、この良さは判らなくても仕方ないか。」と思った。と同時に「これではまったくダメだ。」とも思った。

お客様は、すべて普通に素人だ。当たり前だ。普通の人が欲しがるような商品でなければ、提供する意味なんて全くない。ましてや1年後この店はガソリンスタンドになる。

 

1993年ガソリンスタンドになる前に45分で出来る最良の美装を突き詰める。

ガソリンスタンドのお客様は、給油時についでに待てる時間で出来なければ買わない。だから、それを45分と設定した。その上で横浜で習った磨きとポリマーコーティングの知識と技術を活かし、45分での最良の美装「Qシステム」を、市販の色々なケミカルと道具を組み合わせて工夫して作った。

 

1993年12月 GSになったクリーンベースでQシステムが全国2位になる。

この時造ったQシステムが今のピュアキーパーのはるか昔の原型です。

しかし、これはGSクリーンベースのお客様に大変受けて、この年の12月、405万円の売上を上げて、全国の洗車売上コンクールで2位になった。

 

1994年 全国から来られる見学者に対して「ワンデースクール」を始める。

地方の聞いたこともない会社の、ちっぽけな出来たばかりの変な名前のGSが、

突然、全国2位になったことは当時の洗車業界では評判になって、全国から見学の方が来られるようになった。

しかし、来るたびに説明しているのは大変だったので「Qシステム・ワンデースクール」を開いて、「何をどうやったらこう出来るのか。」を教え始めた。

と、同時にケミカルと道具の供給を始める。

 

1995年 「オリジナルケミカル」開発と特許「塗面改善の方向性」登録。

そうしているうちに、Qシステムをオリジナルのケミカルとして、当時買い取った化学研究所と一緒に開発・改善して、それを「塗面改善の方向性」という名ので特許を取り、KeePer (当時はまだKeeP”re”)としてブランディングする。

 

 

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    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
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