谷 好通コラム

2005年08月22日(月曜日)

1236.私たちの20年間

アイ・タック技研?グループが20周年を迎えました。

 

キーパー商品をはじめ弊社製品を御利用いただいている全国のお客様。
また、そのお客様と私どもを仲立ちいただいている代理店様。
商品を供給していただいている仕入先の皆様。
私どもの成長を支えてくださっている金融関係の皆様。
会社の、また店舗の土地を貸していただいている地主の皆様。
また、アイ・タック技研?の中心的活動であるスクール活動を支えて下さっている皆様。
あるいは、影に日向に色々な形で私どもを支えて下さっているたくさんの皆様。

 

皆様のおかげで、
我がアイ・タック技研グループは、ここに20周年を迎えることが出来ました。
役員をはじめ社員、スタッフ一同、
深く、深く、心を込めてお礼を申し上げます。
ありがとうございました。

 

アイ・タック技研?グループは、20年前の今日、昭和60年8月20日、
株式会社タニの設立を起源としております。
私が32歳の時です。

 

 

独立する以前のある日、
その頃の同僚、深見さんという人から
「ガソリンスタンドをやめようとしている店が、刈谷にある。
土地は借り物だけど、上の建物や設備を売ってくれると言うんだ。もちろん商売もね。
刈谷は俺には遠いから、よかったらこの話紹介するよ。」と言われ、
独立志向の強かった私は、
喜んで紹介してもらい、
刈谷の「クラウン石油さん」に通い始めたのです。

 

しかし実は、その頃、ほとんど貯金がありませんでしたので、
上物を、当時お世話になっていた共同石油さんの関係会社に買ってもらい、
そのまま、上下を私に貸してもらって、経営をさせてもらおうと、考えたのです。

 

その窓口になっていただいたのが、現在、ジョモネット西東京の常務 藤本忍様です。
藤本さんには、
一緒にクラウン石油さんに何度何度も足を運んでもらって、
何時間も何時間も一緒に話をしていただき、

 

「もう、いい加減にしろよね。イントロが長いよ。」

 

とおっしゃりながらも、また何度も何度もご一緒いただいて、
大変に御迷惑をおかけしたものでした。

 

それでも、何とか話が進み、
私は最初から土地もお金も無しで、
その店の経営者として独立する事になったわけです。
実に調子のいい話で、その分、藤本様にご苦労と御迷惑をおかけしたわけです。

 

おかげさまで、めでたく
ガソリンスタンド、共同石油・高津波店として出発しました。
商売は順調で、出荷の多い12月には、ガソリン・経由・灯油など燃料油合計で300kl、
油外収益が150万以上を越すなど、快調に飛ばし、
儲かりました。

 

 

その頃は夫婦と若い子一人の給料だけですから、
経費もたかが知れています。
儲かりました。
独立からわずか7ヶ月で、家のローンを全部返したほどでした。
「ホ~っ商売って儲かるなぁ~」と喜んでいたら、
次の月に相方が倒れました。

 

たしかに儲かりはしたのですが、三人で300klは無茶なわけで、
自分はいいのですが、
負担がかなりいっていた様で倒れてしまったのです。
これはこたえました。

 

その時つくづく学んだのは、
「自分ひとりでは何も出来ない。人の力を借りなければ何も出来ない。」
ということです。

 

そんな困った時に頼れるのは肉親である、
頼みこんで弟・清隆(現専務)に来てもらい、3年間、真面目に働きまして、
今度は2軒目のスタンドの用地を買いました。

 

しかし、
スタンドを作っても、
その頃のスタンド数の総量規制で、
ガソリンスタンドとしての営業ができず、
1年間をガソリン抜きでの営業を強いられる事になりました。

 

土地の借金の支払いは始まっているし、
大ピンチです。
今考えると、まったく無計画で無茶な行為でした。
今だから言えますが、まさに倒産寸前です。

 

「無計画は破滅を招く」ということでしょうか。

 

その時、出した結論が、「洗車」です。
それも当たり前の洗車では、商売にならない。
お客様に、わざわざ来ていただけるような差別化された洗車をしなくてはと、
その頃たまたま新聞で知った横浜のモービルクリーンベースの高木先生の所へ、
修行に通いました。
多くの事を学びました。
その時学んだことが今の基礎になっています。

 

そして、その2軒目の店を「クリーンベースWith」と名乗り、
洗車と磨きの店を開きました。
経営はなかなか難しいものでしたが、
弟が店長として頑張ってくれて、かなりの実績が上がるようになったのです。

 

 

やがて1年が経って、
ガソリンスタンドも営業できる事になった時、
状況がまた一挙に変わりました。
洗車と磨き専門の店に比べたら、ガソリンスタンドの来店数は圧倒的です。
そのたくさんのお客様に面白いように洗車と磨きが売れました。

 

この頃、初めてのテレビ取材を受けて、緊張してカメラの前に立ったものです。

 

それまでの磨きなどの技術と知識を使って、
ガソリンスタンドのお客様にも買っていただけるような
短時間で施工できるコーティングシステムを作りました。
まだ市販のケミカルを寄せ集めです。

 

これが今の「キーパー」の原型となった「Qシステム」です。

 

クリーンベースは、洗車と磨きが非常に得意なガソリンスタンドとして再出発したのです。
ちっぽけな店でしたので、ガソリンはピークで100kl程度でしたが、
洗車関連商品は平月でも常時200万円を超え、
12月には405万円を越したのです。
パーリッター40円という異常に洗車に片寄った実績です。
これは、
現専務の谷清隆君とスタッフの2人で出した実績で、
その時の労働分配率はたしか20%を切っていたと記憶しています。

 

これが、新聞に載って、
見学者が来られるようになり、
それがだんだん増えて、見学者にいちいち応対しているのが大変になって、
「スクール」を開き、
そこに出てもらうようにしたのです。
これが、現在も続いている「ワンデースクール」の始まりです。

 

そのスクールで、
「Qシステム」をお教えしている内に、
ケミカルや道具などを提供、販売するようになりました。
それが「卸しの商売」のはじまり、
株式会社タニ スーパーポリマー事業部のスタートです。

 

その商売が進み、
だんだんと顧客数も増え、技術も進んでくると
市販のケミカルを寄せ集めたものでは、満足できなくなってきて、
自分たちで作った、納得できる新しいケミカルが欲しくなってきたわけです。
と、同時にCIも構築し、
新ブランドとして「キーパー」が誕生しました。
会社も、スタンド営業からスーパーポリマー事業部を切り離して
新しい会社を作る事になりました。
それが「アイ・タック技研株式会社」であります。

 

今から10年前のことです。

 

 

そして、全国展開を始めたのもこの頃です。
最初の県外のお客様が、仙台の菱和共石様で、
先程の会社設立の恩人、藤本様のご紹介だったのです。
いつまでも、藤本さんにはお世話になりっぱなしであります。

 

最初は局所的な活動であった全国展開も、
洗車機メーカーのユニックス(現ダイフクユニックス)様という
すでに全国販売網を持っていらっしゃる会社との販売提携によって、
一挙に全国展開が広がりました。
キーパー専用洗車機「EX KeePre」が出来、
ユニックスの皆さんと、初めて展示会に出たこともいい思い出です。

 

その頃の谷専務。(笑、ごめん)

 

 

みんな大忙しで全国を飛び回って、
KeePreの普及に必死になっていた頃です。

 

しかし、その頃、
?タニ発祥の高津波店の目の前に、
大型の最新型のガソリンスタンドが建てられることを知りました。
ホントの目の前です。

 

黙って見ているわけには行きません。
対抗して高津波店を
急遽改装することにしました。

 

突貫工事で造り上げたこの店に、
「リンクス」という洒落た名前を付けたのです。

 

この工事は劇的でした。
目の前の大型スタンドが更地に工事を始める頃、
こちらの高津波SSを一挙に取り壊して、
猛烈に新しいSS建設工事を始めたのです。
そして、向こう側がSSを造り上げる一週間前に完成させてしまいました。
お付き合いのあった計量器メーカー「トキコ」の山田さんが、
私たちの無理を聞いてくれて、やり遂げてくれた快挙です。

 

その頃向こう側の大型SSが、予告看板を上げていました。
そのSSの名前は「バナナスタンド」なのだそうです。

 

「バ・ナ・ナ~~?なんじゃそりゃ」
「なら、敵のオープニングの景品はバナナに決まっとるじゃん」

 

と、いうことで、
敵よりも一週間前にオープニングを迎えた我が「リンクス」は、
そのオープニングイベントで、
バ・ナ・ナ・ひと房ずつをを配りまくったった(名古屋弁)のである。
その総数約5,000房!?

 

目の前の「バナナスタンド」の心境は如何ばかりであったでしょうか。
気持ちを込めて「バナナスタンド」と銘打って、
そのスタンドのシンボルの“バナナ”を、
地元の人にプレゼントしようと思っていたのに、
目の前の「リンクス」なる敵が、一週間前に“バナナ”を地元に配りまくってしまったのです。
誰だってバナナをひと房を食べれば、
しばらくは“バナナ”は食べたいものではありません。

 

情け無用のバナナ潰し作戦は見事に成功し、
その後も、少なくとも客数においては圧倒的な勝利を収めたのです。

 

 

しかし、オープン以後、
大型SSと安値合戦、それも仕入れ値以下での安値合戦の死闘を繰り返し、
我がリンクスも、売れば売るだけ赤字が増え、
わずか7ヶ月で3,000万円もの大赤字を出し、
数量的には圧勝したのですが、
バナナスタンドが撤退したあと、こちらも大赤字に耐えられず屈辱の撤退を帰し、
発祥の地を去ることにもなったわけです。

 

この時も、藤本さんに大変御迷惑をおかけしました。
この時は、実は会社もちょっと危ないところまで追い詰められていたものです。

 

この時の教訓
「安値合戦は、相手が誰であろうと、どちらにも悲劇的な結果しか生まないもの。」

 

 

一方、アイ・タック技研のほうは、
大変忙しくなり、人の都合も付かず、残念ながら、クリーンベースも閉鎖して
結局、ガソリンスタンド部門は両方とも閉店しました。

 

アイ・タック技研が猛烈に忙しかった頃のことです。
自ら展示会にも始めて出店し、
講演会も数多くこなし、
スタッフは連日、ユニックスさんとのKeePreのデモで、
あるいは全国の代理店さんと一緒にスクールをやり、全国を走り回っていました。

 

 

それでも、
“現場”が無くなって人的には楽になりました。
初めて、年末ものんびり過ごしました。

 

しかし、私たちの原点は、
あくまでも“現場”にあります。
現場を失ったアイ・タックは何となく元気がなく、
実績も、忙しい割に上がらず空回りしていたような気がします。

 

現場という自分たちの活動の精神的な根拠がなくなったからでしょうか。

 

これはイカンなと、
現場が無くなってから1年半後の、7年前の平成10年7月、
私たちの理想とする洗車専門店「快洗隊・刈谷店」を作り上げました。
私たちがリンクス撤退のあと、
後任の運営者も撤退していた私たちの発祥の地、高津波の店の跡に作ったのです。

 

 

そこに詰められたノウハウは、アイ・タックの活動の中で育まれてきたものの結晶であり、
アイ・タックの活動の中で、
「洗って欲しいけど、SSの洗車では満足できないので、仕方なく自分で洗っている。」
そんな手つかずの新しい洗車マーケットの潜在的な存在に気が付いたのも、
快洗隊を作る大きな動機になりました。

 

それから、またみんな元気が出て、
フランチャイズも増え、アイ・タックも伸び始めたのです。

 

それから、仙台営業所、大阪、福岡、東京、札幌、広島と拠点も広がっていき、
その中にはスクールを併設する拠点もあります。
社員もだんだん増えて参りました。
みんなが頑張りました。

 

快洗隊も、最初の時期は低迷し苦労しましたが、
リピート客の確実な積み上げで、毎年徐々に実績を上げ、
今では、平月で洗車売上げ500万円を越す素晴らしい店舗に成長しています。

 

アイ・タックの大きな転機はそれまでもいくつかありましたが、
もっとも大きな転機が、快洗隊直営店の本格的多店舗展開の開始です。
これは、今の?快洗隊代表取締役畠中修君の参加が基点となっています。

 

彼がグループに参加してくれた事によって、
?快洗隊という会社を作る気になりましたし、直営店を全力で増やしていく構想も、
スタートさせることが出来ました。

 

 

土地探しにずいぶん苦労しましたし、現在もそうですが、
まず知立店に始まり、
安城店、北神戸店、相模原店、鳴海店、松戸店と、オープンしました。
いずれも初年度は苦労するのですが、
やはりリピート客の蓄積が進むと、非常に収益性の高い店舗に成長します。

 

その実績がテコとなり、
アイ・タック技研の実績も毎年30%近い大きな伸びを示しております。
快洗隊が伸びると比例してアイ・タック技研も伸びるという
不思議な方程式が出来上がっております。
もちろん、
これは、アイ・タックの営業諸君みんなで三カ年計画を作って、
目標を持った行動になったことも大きい要素ですし、
その計画を、全力で実行しようとする意欲の強いスタッフの存在が大きな要素でした。

 

松戸店を最後にしばらく物件が出ず、新規店が造れない状態が何ヶ月か続きましたが、
来週、千葉県にオートパラダイス快洗隊・五香店がオープンします。
愛知県、岡崎には岡崎店がただ今建設中です。

 

 

そのあとには、甚目寺店、稲沢店が今年中のオープンを目指しています。

 

 

まだまだ、快洗隊は増え続けます。
その急増に耐えうるだけの?快洗隊のスタッフ諸君の高いモチベーションがあります。

 

今年が基点の三カ年計画では、
18年6月までに5店舗、
19年6月までにあと12店舗
20年6月までにあと24店舗がオープンすると予言しております。
そうなると、
20年6月時点では、48店舗の快洗隊が存在するという事になります。
そのために、店舗開発のスペシャリストも確保しました。
フランチャイズ店も同様のペースで増えており、
このペースで行きますと、
20年6月には直営・FC合わせて約130軒が出来るかも知れません。

 

アイ・タック技研におきましては、
17年度決算ベースにおいて、
グループ9社合計で、
売上げ18億1千万、
税引き前の経常利益1億1千万の実績であります。

 

これを平成20年度までに、
約2.5倍増する計画が、
それぞれの部署からの決意として上げられています。
具体的な行動と達成までの現実的なプロセスを伴った形での、
現実的な決意と受け取っております。
みんなかなり必死なのです。

 

 

20年は、人間にたとえればやっと二十歳になったばかり、
成人となって、世の中からやっと一人の人間として認められる歳であります。
アイ・タック技研?も、これからであります。
これからやっと成人として、世の中の為に役に立つ会社になるという節目であります。

 

今後、アイ・タックグループが、世の中にとってどんな存在になっていくか、
本当に役に立つ存在になるか、
忘れられた存在になるか。

 

アイ・タック技研グループが、
きっと世の中にために役に立つ存在になるよう、
グループすべてのスタッフが一丸となって、頑張っていく決意であります。

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2005年08月22日(月曜日)

1235.アメリカへの進出

創立20周年記念の会の中で、
アメリカへの進出について発表した。
このコラムの上でも、その真意をお伝えしたい。

 

 

 

アメリカへの本格的に進出を目指す事にした。
役員会での議論も必要ではあるし、
六月の決算直後でもあるので、
株主総会にも諮らなければ、正式とは言えないのかも知れないが
私的には、そうしたいと考えている。

 

今、アイ・タック技研として、
米国に進出する「必要性」があるかと言えば、
「まだ無い」と言った方が正しいだろう。
当面は日本国内での活動をもっと強化して、
3年後を目標としている株式の店頭公開に向けて
体力を着けるべきであり、
あらゆる意味での「力」を外へ分散すべき時ではないのかもしれない。
しかし、
トニー谷川氏というアメリカでのビジネスに精通し、
また、彼の言葉を借りるならば“いつも青春真っ只中”という
アイ・タック技研の気風にぴったりの信頼し得る人物との出会いが“今”あり、
何ものにも替え難い“縁”というものが、
“今”有るとするのならば、
米国進出の機会は“今”がベストであると考えたわけだ。

 

トヨタ自動車、日産自動車、本田技研など、
世界の舞台で活躍する自動車メーカーの今現在の姿があるのは、
過去に米国への積極的な進出があった事に違いないことは言うまでもない。
これらのメーカーの車は、
日本で販売されている数の何倍もの数の車を海外で販売している。

 

日本に住んでいると、
日本のメーカーの車は、
日本国内のために作られている様に錯覚するが、
実はそうではなく、
日本でのマーケットは、
彼等のビジネスの何分の一でしかないのだ。
だから、
たとえば、
小型主の人気車種“トヨタ、ビッツ”は、
北米などでの海外での使用、販売を前提としており、
(“トヨタ・ヤリス”が本来の名前である。)
だから、
基本的に左ハンドル車として設計されていて、
右ハンドル仕様は、例外的に日本(イギリスも)用として作ったものだ。
本来のビッツは、左ハンドルなのである。
そのせいか、
今度の新しい“右”ハンドルのビッツは、
ペダル類が不自然に左側にオフセットしており、
ドライビングポジションも取ってつけたようだと、
自動車雑誌などでこっぴどく批判されている。
トヨタ・ビッツは、欧米の為に設計された車であり、本来的に日本の車ではない。
トヨタは、私たちの知っているだけの日本のトヨタではなく、世界のトヨタなのだ。
そこへの飛躍は、アメリカへの進出から始まった。

 

アメリカは、車にとって特別な国である。
その数の多さは、世界一であるし、
どんな田舎に行ってもフリーウェーが張り巡らされていて、
四車線は当たり前、
五車線、六車線の道路を、
ものすごい数の車が、ものすごい勢いで走っている。

 

マーケットとして考えた時、
これ以上のスケールを持った国はないし、
参入を拒むものも何ものもない。

 

トヨタにしても、日産、ホンダ、マツダににしても、
輸入を拒むものがない自由な国、米国が有って初めて世界に進出できたのであり、
今の業容を持つことが出来たのは事実である。

 

私たちがトヨタになろうなんて考えている訳ではないが、
車に関わるビジネスに携わっている以上、
車の国であるアメリカには、
何時か手がける事になる国であることは違いない。
そのほうが絶対に大きな展開が見えてくるに違いないのだ。

 

ならば、“縁”を天から授かった“今”、進出を始めれば良い。

 

アメリカというと、車を道具と割り切って、
洗車なんかまったくせず、ましてやコーティングなんてするわけがない。
そんなイメージもあったのだが、
ここ何回か訪米で、
ロスアンジェルス、ニューヨーク、サンアントニオ、セントルイス、などで、
いくつもの洗車場を見学し、運営者に話を聞いた経験で、
「キーパー」にしろ「快洗隊」にしろ、
アメリカのユーザーの中に、
そのニーズが潜んでいることをしっかりし確認した。

 

そして、アメリカには、
ヨーロッパのように自分たちが造った物以外を受け入れにくい体質もない。
良い物を良い物として正当に評価し、
偏見なく、受け入れてくれる体質を感じた。

 

アメリカでのビジネスは高い確率で成功するだろう。

 

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    谷 好通

    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
    読めば読むほど元気になること間違いなし。・・・の、はず。

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