谷 好通コラム

2007年12月20日(木曜日)

1802.人の為に考えられるか

人は産まれて間もない赤ん坊のころ、
自我の塊である。
腹が減れば泣き、おっぱいを飲ませろと訴える。
おしめが濡れれば気持ち悪いと泣き、気持ち悪いのを何とかしろと訴える。
親が病気であろうと、何であろうと親の都合などまったく関係ない。
ただ、自分勝手に泣きわめき自我を主張する。
それが赤ん坊の仕事なのだ。

 

人は最も幼い時、
自分勝手、利己主義、わがままの塊なのだ。

 

乳離れするような頃でも同じようなもので愛情を受ける一方だ。
それが、一歳、二歳と年齢を重ねるに従って、
親から叱られたり、なだめられたり、誉められたりしながら、
やっていいこと、いけないこと、やると誉められることなどを憶えていく。
この時期の“しつけ”が、その人の基本的な人格が形成されるらしい。
「三つ子の魂、百までも」の言葉が表すとおりだ。
自分のやったことで親が喜ぶと、自分も嬉しいことを憶える。
もう少し歳を重ねて、
今度は同じ子供通しで遊ぶようになると、
自我と自我がぶつかり合って、勝つ時もあれば負ける時もあるが、
自我の主張だけでなく、譲り合って仲良くすることも徐々に憶えてくる。
特に自分の弟とか妹が出来ると、
それを可愛がることによって、親がすごく喜んだりするからなのか、
兄弟のためになること、
つまり自分以外の人のためになることをすると自分も嬉しくなる。
そんなことも憶えてくる。

 

社会性の芽栄えである。

 

幼稚園、小学校、中学校と他人の集団の中での自分が、
していいこと、してはいけないこと、すると嬉しいことを身に付け、
社会性を強くしていくと同時に、競争することも憶えさせられる。
そして上の学校に行ったり社会に出て、
人間として独り立ちをすることとは
他人を尊重すること、人の立場に立って考えることであるという
広い人間社会の中での社会性を身に沁みさせられる。
これを成長というのだろう。

 

人は自我の塊であった赤ん坊から
成長するに従って、他の人のことも考えられる社会性を持ってくる。

 

人は本能だけで生きてはいけない、一人では生きていけない。
自らを取り巻く多くの他人と社会を形成し、
社会の中でお互いがお互いと共存しつつ、
競争をして自分を高めていく過程で、自らが高まり、成長を続けるものだ。

 

そう考えると、
自分のためにしか物事を考えられない人がいるならば、
それは、精神的に幼いということであって、
人間としての成熟がある時期に止まってしまっていると言うことなのだろう。
人と話をしていても、
すぐについ「私は・・、俺は・・、僕は・・・、」という話になってしまうとしたら、
それは要注意である。
自分の発想が自分の側からの観点ばかりになっているとしたら、
それは社会性が低いかもしれないということであって、
その意味においては幼いということにもなりかねない。

 

人は社会の中で、自分の思うがままには生きられない。
社会の中の多くの他人との関わりの中で生きている。
特にお客様と直接接するような仕事では、
お客様のことを考えられなくては、お客様は受け入れてくれない。
その店のためにお客様は来店するわけではなく
お客様は”自分のために”店を使うわけなのだから、
自分勝手な事ばかりを言って、自分勝手なだけの店など使う意味がないからだ。

 

昔々、こんなことがあった。
「今、キャンペーン中ですので、燃料タンクの水抜き剤入れてくれませんか?」
「えっ? 君の店がキャンペーンだから私がそれを買うの? なぜ?」
今はもうないが、昔々あった話だ。

 

こちらの都合で、
お客様に必要であるかどうか関係なく、
ただ自分の都合で、買ってくれと言うのは、
断りきれずに買った人は、もう二度とその店には行くまいと思うだろし、
その人を信用して買ったりする人は、
自分のためにではなかったことを知ると、いつかその人を信用しなくなる。
その店をも信用しなくなる。
商売は信用の積み重ね。信頼の積み重ねである。
たった数百円の目先の利益の為に、何物にも変えがたい大きな信用を失うのは、
まったく愚かなことであった。
社会性の低い、精神的に幼稚な発想での行為であったと思う。

 

一人ひとりの人間が、
お互いがお互いのことを考えて成り立っていくのが社会であるならば、
自分のことだけを考え行動することは反社会的なことであると言える。
実に犯罪とは自分勝手が極端になった行為のことであって、
実生活の中でのちょっとした自分勝手が何かの拍子に犯罪につながることもある。

 

仕事とは「会社などを通しての社会に対する何らかの貢献」とくくることが出来る。
何らかのものを作って社会(他の人)に提供すること。
何らかのサービスを提供して社会に貢献すること。
そして給与とは「社会に対する貢献に対する報酬が会社などを通じて支払われる金銭」
これはきれいごとなどではなく、社会的な原則だ。

 

仕事とは、対象となる相手のことを考えることで成り立つ。

 

文章を書く人は、
その文章を読む相手(人)がきちんと理解できるかどうかを考えないと、
仕事として文章を書く意味がない。
意味がなければ、読んでくれる人はいなくなる。

 

コマーシャルデザインをする人は、
そのデザインを見る人がどのように感じるかを考えなくては、
仕事としてデザインをする意味がない。
意味がなければ、デザインを使ってくれる人はいなくなる。

 

物を造る人は、
造った物が、それを使った人にどのような役に立つのか、
どのように喜んでもらえるかを考えなくては、
仕事として物を造った意味がない。
意味がない物ならば、造っても買ってくれる人はいなくなる。

 

物を売る人も同じだ。
売った物が、買った人にとってどのように役に立つか、喜んでもらえるかを考えなくては、
仕事として物を売った意味がない。
意味がない物を売ってしまったら、もう誰も買ってくれなくなる。

 

サービスを提供する人、たとえば車を洗う人は、
洗ってもらった人がどのように感じるのか、喜んでもらえるかを考えなければ、
仕事として洗った意味がない。
意味がない洗車をしてしまったら、そのお客様は、次から自分で洗うだろう。
自分で車を洗う人がいまだに半分以上いる中で、
受けるサービスとしての洗車が、世の中に歓迎される存在になれるかどうかは、
実にその一点にかかっている。

 

私たちが物を販売したり、技術などを提供する仕事をしているならば、
自分たちの為だけに売ったり、提供したとすれば、
それが、受けた人たちにとって意味のない物ならば、
私たちはいつの日か、世の中から消滅するのだろう。
相手のためになる物、ためになる事を提供することが、私たちの仕事に意味がある。

 

もちろん、
世の中には、受けたものに対して報酬を与えない人もいる。
それは奪うことであり、食い逃げでもある。
そんな奪う人からは自らを防御することも必要であるし、
食い逃げする人とは縁を切る必要もある。
そういう意味では、仕事とはきれいごとではない。闘いでもある。
しかし、相手のことを考えられるという社会性を持っていなければ、
つまり自分たちの目先の利益だけを考えるような会社を、
社会は、永続的に大きく発展させることはしない。
じきに世の中から抹殺される運命である。

 

仕事とは相手のためになる事をする行為。
そして、みんなでその報酬をきちんと受けること。
そしてその報酬を、相手のために、仕事を共にした人たちのために、
そして自身のために、きちんと提供していくこと。
また、社会が望むならば、その仕事を長く拡大していくために投資していくこと。

 

 

いすは人が座るために用意されているものであって、荷物を置く台ではない。
立っている人がいるのに、自分勝手に荷物で椅子を占領する姿は、
実は犯罪と大差ない。
自分自身を含め、わが身を振り返る必要がある。

 

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    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
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