谷 好通コラム

2011年03月31日(木曜日)

2754. 川俣町は何ら変わらず平和で安全な町だった

川俣村に行く前は、
正直に白状すれば、少し緊張していた。
開通して間もない東北道を北上して宇都宮を過ぎ、
福島県に入ったぐらいから高速道路が応急で保守してある箇所が目立つようになって、
少しスピードを出していると、おっとっとバウンドする箇所もあったくらい。

 

川俣村へは東北道の松河S.A.の中のETCの出入り口から出る。
東京・川口からは270kmぐらいの地点だ。

 

東北高速道から下りてしばらく一般道を走ると、
倒壊している家屋とか屋根瓦が落ちている家があるかと思ったら、
まったくない。
平和な田舎そのものの風景がずっと続き、
高台にあった墓地のお墓も一つも倒れていないし傾いているものもない。
道路も全くひび割れた箇所はなかったし、
崩れた崖もないし、お店も普通にやっている。
高速道路の臨時の補修がウソのようだ。

 

災害後らしい光景を期待していたわけではないが、
ここまで普通と変わらない光景は、ちょっとびっくりしたぐらいだ。

 

高速を下りてから10kmたらずだが、
むしろ海側に近くなる川俣町に入ってからも同じで、
去年、キーパープロショップ研修会用のビデオ撮影で訪問した時と全く変わらない。
不謹慎な言い方だが、あの時と同じのどかな風景であった。
自然豊かで、素晴らしい所である。

 

仙台から入っている澤田君と大和君は、
すでに指定された学校や公民館に機械を取り付けに行っているらしい。
私と同行の岩崎所長と菅野君は、
町役場に行って、水道局の方と一緒にとりあえず町長さんにご挨拶に行った。
町役場の中もたぶんいつもの様子と一緒なのだろう。
慌ただしさはなかった。

 

やがて町長室に案内され、川俣村の町長さんのお話を伺う。
話を通していただいた㈱誉田の誉田社長も一緒だ。

 

町長さんいわく、
地震後3日間は電気もなくライフラインが途絶えて大変だったそうだ。
私たちは気がつかなかったが、倒壊した家も何軒かあったそうで、
町長室の応接セット後ろの暖炉のレンガが一部ずれていた。
しかし、一番困るのは風評被害で、
町に何の連絡もないまま、
町で採れたほうれん草の放射線量とか、
水道水の放射線量がどんどんテレビで発表、放映されてしまうので、
風評被害で全部ダメみたいになってしまう。
放射線量はもうとっくに下がっていて、
出荷されたものでももう全然検出されなくなっても、誰も買おうとしない。
全く困ったとおっしゃる。

 

今回の地震は直下型ではなかったので、
震度は大きかったもののゆったりとした横揺れが長く続いたケースで、
家屋の倒壊にはほとんど繋がらなかったようだ。
しかし、それに続く史上最悪の大津波で、
海岸線沿いの町はやられてしまったが、
地盤のしっかりした山間部にある川俣村では大きな被害は全くなかったようだ。
しかし、
地震後の津波で被害が出た海沿いの大熊村などは、
そのあとの原発事故で、避難の指示が出、
一斉に山間部に避難せざるを得ず、
第一避難所として人口約16,000人の川俣村でも、
約6,000人もの避難者を町の体育館や公民館などで受け入れたそうだ。
町長さんが
「あの人たちは、地震にやられ、津波にやられて、
あげくが原発にやられた。本当のお気の毒だった。」
と、しみじみおっしゃっていたのが印象的だった。
避難の方々は第一避難所であった川俣町から、
埼玉とか会津若松の受け入れ容量の大きな市の第二避難所に移動されたそうだ。

 

「放射能なんて、もう町にはほとんどないんですが、
念のため、万が一の念のために純水機の貸し出しと設置をありがたく思います。」
と感謝のお言葉を頂戴した。

 

それから、仙台の二人、澤田君と大和君が
RO機を設置しに行っている「山木屋公民館」を訪ねた。
川俣町役場から東、つまり海岸線に向かって約十キロのところにある。
そこにはつい何日か前まで、大熊町の避難の人たちが寝泊りしておられたようだ。
今はすでに空っぽになった公民館も、
つい最近まで大人数の食事を作っていたのだろう、でっかいお釜や、
巨大な中華なべのような調理器具が、大きな厨房にキレイにして置いてあった。
「あのでっかい釜で炊いたご飯はおいしいだろうな」と思ったのは、
私が少しお腹が空いてきていたからだった。

 

そろそろ日が暮れてくる頃、
東京に帰るために東北道に向かう途中、
去年八月にキーパー選手権で全国四位に入賞された川俣バイパスSSにお邪魔した。
SSには高橋所長がいらっしゃったが、
ガソリンはこの日の分はすでに売り切れて、
灯油と軽油だけを販売している体制であった。

 

雨が降ってきた。
高橋所長は、やっぱり元気はあまりなさそうで
「とにかくガソリンが入ってこないんですよ。」と。
なかなか入ってこない燃料に参っている様子。
「洗車も油外収益も全滅です。」と残念そうおっしゃっていた。
仕事熱心な高橋所長も、燃料が入ってこない現状では手も足も出ない様子。
東京都内はもうすっかり燃料不足から開放された様子だが、
ここ川俣町では「風評で」タンクローリーの運転手さんも、
ここまで来るのがなかなか怖いのかもしれないとおっしゃっていた。
「全然、大丈夫なんですけどね。」

 

本当に全然大丈夫だった。
川俣町は、壊れた家屋もごくごく一部であったし、
住んでいる人はいつものように優しく、礼儀正しく、誠実な人たちばかりであった。
ただガソリンをはじめ色々な物が
なかなか入ってこないことには困っているようだった。
川俣村は、怖いと思うような要素は何もなかった。
大都会にいるよりも、はるかに人間らしく生きられそうな平和な町であった。

 

しかし今後の危険性の可能性が、わずかであっても、ゼロではないことも、
よく知っていることは当然で、
万が一のための、念には念を重ねる意味での純水機設置だったのです。

 

今日発送、明日到着、即設置予定の「飯舘村」が、
国際機関であるIAEAが、日本は飯舘村に避難指示をすべきと勧告している記事が
今日のインターネットに載っていた。
明日、快洗ROを搬入できるのかなと思って、
飯舘村の村長さんに電話をしてみた。(直通なのだ)
「勧告が出ているみたいですが機械を送って大丈夫ですか?」と言ったら、
「全然、関係ありませんっ」と、きっぱり。
「はい、わかりました。では、予定通りお送りして設置します。」と答えた。

 

いくら今後、危険性が発生する可能性が少しでもあったとしても、
少なくとも、地震をしのいで、津波も関係なく、
静かに平和に、いつもの生活をしていて、
山の向こうではるか遠くの出来事で、
あなたの生活が危険になる可能性がありますと突然言われても、
ほっといてくれ。と思うだろう。

 

一度避難地域に入れられてしまえば、
よほどのことがなければ解除されるものではない。
飯舘の人々の平和で静かな生活が、いっぺんに壊れてしまうかもしれないのだ。
絶対にいやだろう。よーくわかる。

 

飯舘村の村長さんの
「全然、関係ありませんっ」の言葉が、耳に残った。

 

川俣町のごくごく普通の光景。

 

 

左から今回お世話になった㈱誉田の誉田社長、川俣町古川道郎町長。

 

 

山道を登って「山木屋公民館」に行く。

 

 

設置中の大和君と澤田君。

 

 

プロ意識の強い澤田君は完璧な配管を求めて、床下へもぐっていった。

 

 

大和君、ご苦労様です。

 

 

花粉症の人ならぞくっぞくっとくる光景です。

 

 

役に立たない人は、玄関の喫煙所でタバコを吸うだけです。

 

 

愛知から菅野君も応援。

 

 

山木屋公民館は、丘の上にあって、
坂の両側の桜は、きっと見事な花を咲かせるでしょう。

 

 

雨が降って来た。

 

 

キーパー選手権全国四位の高橋所長。
まだ燃料んがなかなか入ってこなくて、困っていました。
早くキーパーやりたそうです。

 

 

川俣町には立派なホームセンターがあって、立派に営業していました。

 

 

その日のうちに帰ってきた東京では、やはりネオンもなく暗かった。

 

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    代表取締役会長兼CEO

    谷 好通

    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
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