谷 好通コラム

2002年12月07日(土曜日)

587話 たなぼた的尻

たなぼたとは
「棚からぼた餅」
努力もしないのに、予想もしなかったご幸運が、突然
降ってくる
超ラッキーなこと

 

尻馬とは
人が乗っている馬の尻、つまり人のやったことに便乗すること

 

たなぼた的尻馬とは
思いも寄らぬラッキーで、人のやったことに便乗すること

 

この度、苦労もせずに、ラッキーなことになってしまった

 

 

「オートスポーツ」という雑誌がある
レースの事を載せている雑誌としては、最も古い雑誌
たしか私が中学生の頃に
1号が発刊された

 

その頃は、日本のモータースポーツの創世期
トヨタ自動車とか、日産自動車など自動車メーカーが
富士サーキットを舞台に
自動車メーカーとしてのメンツを掛けてレースをやっていた

 

当時の日本グランプリ
といっても、F1の日本グランプリではない
日本の中だけでやっていたローカルなレースであった

 

しかしその頃は、世の中はモータリゼーションが花開き始めた頃
日本の自動車メーカーが
その技術を競い、多くの人に見てもらう絶好の宣伝の場として
「日本グランプリ」は、若者の人気の的であった
その第一回の日本グランプリを
私は、当時の白黒テレビで見た

 

走っていたのはロータス23と、国産の乗用車がいっぱい
ロータスはとても小さなレースカーで
たいした力は持っていなかったが
出走車中、唯一の本格的なレースカーで、ぶっちぎりであった

 

当時のテレビは、レースの中継など初めてのことで
ひたすら、トップを走るロータスを映し続け
まるで1台だけで走っているような錯覚を起こすほどだった
今思うと、まったくつまらない中継で
約2時間
白いロータスを見続けた

 

それでも、レースなど見たことの私は、「かっこいい~~ッ」と思ったのだった

 

それから毎年、日本グランプリを欠かさず見るようになった
何回目かの日本グランプリ
日産が初めて作った、本格的レースカー「ニッサンR380」
ドライバーは、高橋健二、高橋国光、黒沢元治、北野元、生沢徹
記憶は不確かだが、確かこの辺のドライバーであったと思う
いずれにしても、圧倒的な戦力であった

 

トヨタも同じく、本格レースカー「トヨタ7」を持ち込んだ
ドライバーは、福沢幸男(福沢諭吉の孫)、河合稔(小川ローザの恋人)と
あと何人か

 

この圧倒的な国産ファクトリー勢に対し
一人、「ボルシェ・カレラ6」で挑んだ
富豪・滝進太郎

 

誰が優勝したのか覚えていない
たしか、滝進太郎・ポルシェカレラ6が、中盤までトップを走るも
圧倒的な物量のニッサンR380の北野元に敗れたような気がする
記憶は確かではない
しかし、目が飛び出るほど
テレビ中継にかじりつき、大興奮しながら見た覚えがある

 

そして翌年、滝進太郎は
ニッサンの若きトップレーサー「生沢徹」を引き抜き
新たなカレラ6に乗せ、自らのカレラ6と共に雪辱を図った

 

対するニッサンは
より一層洗練され
国際的な競争力をも持つであろう「ニッサンR381」を開発
またもや圧倒的な物量を持って
迎え撃つ

 

レースは、大興奮のデットヒートの末
若き獅子「生沢徹」のカレラ6が優勝した

 

これも記憶が確かではない
案外、この2つのレースは、記憶がゴチャゴチャになっているのかもしれない

 

私はその頃、年一回の日本グランプリが
一番の楽しみであった

レースは人気があったとはいえ
その頃の日本では、完全な少数の若者が好きであっただけの
マイナーなものであった

 

レースの専門誌など
第一回日本グランプリの頃発刊された「オートスポーツ」一誌だけで
そんなマイナーな雑誌は、置いていない本屋さえあった

 

私は、その「オートスポーツ」が出るのが、楽しみで、楽しみで
月一回の発行の日を指折り数えたものだ
買ってきた「オートスポーツ」は
隅々まで読んだ
夢中で読んだ
「オートスポーツ」は、私の宝であったのだ

 

そのオートスポーツも
今は、週刊になって、週に1回のハイペースで発行されている

 

 

その「オートスポーツ」に
この間スポンサードさせてもらった「MR-S」が、デカデカと乗ったのだ

 

 

それも、「快洗隊」のステッカーが鮮やかに写っている
びっくり仰天である

 

 

この?17MR-Sの、元々のメインスポンサー
アルミホィールの「KOSEI」さんが
オートスポーツ誌に、1面カラー広告を出されて
そのついでに、我が「快洗隊」も載ってしまったのである

 

これぞ正に“たなぼた的尻馬”と言わず、なんと言おう
これは、随分高い広告料である
それに、我が「快洗隊」は、タダで載せてもらってしまったのである
ありがたい、ありがたい

 

 

私が、50歳になってから
自分でレースに出るようになるなどとは
日本グランプリのその頃は、まったく想像できなかった

 

私のレースの師匠「テツ清水」は
その「生沢徹」の熱狂的なファンで、若い頃そのままレース界に
飛び込んでしまったのだ
そして彼のエントリー名「テツ清水」は、もちろん
「生沢徹(テツ)」にあやかったものである

 

いよいよ明日は、今年最後の「MINE・ジュニア耐久レース」

 

今は、小郡へ向かう新幹線の中である

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    代表取締役会長兼CEO

    谷 好通

    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
    読めば読むほど元気になること間違いなし。・・・の、はず。

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