2015年05月28日(木曜日)
5.28.めちゃかっこいい車いす、ありました。
元々変形していた左足の足首が、
椎間板ヘルニアの療養中に、
何がどうなったのかは判りませんが、
足首の変形が進んで、
中が骨折してしまっていたのは本当です。
だから、その変形がひどくなる向きに足を着くことが出来ず、
ほんの少ししか距離を歩けなくなっています。
だからもうすぐ足に金属の装具を付けることにはなっているのですが、
一番手っ取り早いのは「車いす」に乗ることでしょう。
無理して歩いたりしていると、かえってみんなに迷惑をかけるので、
観念して、車いすを使わなくてはならないのですが、
強い抵抗が、気持ちの中にあります。
「かわいそうがられる」のがすごく嫌なのです。
車いすに乗っていると。空港でも、どこででも、みんながかばってくれて、
でも、みんなのその所作も、言葉も、
基本的に、車いすに乗っている私は「かわいそうな人」なのです。
でも、私は自分をかわいそうだとは全く思っていません。
私がかわいそうである訳がありません。
それに、
痛いのを必死になって我慢し、杖をついて歩いている時には、
誰一人として、かばってくれたり、手伝ってくれないのに、
つまり、頑張っている時には、放っておかれるのに、
私が車いすに乗ったとたんに、
可哀そうな人になって、
かばってくれるどころか、至れり尽くせりになるのは、
どうしても抵抗があります。
そんなことを思っていると、
素直に車いすを使う気になれず、
連れ合いが一生懸命に、車いすを使うことを勧めてくれればくれるほど、
「うるさいな、ほっとけよ。」と、心無い言葉を返してしまいます。
だいいち、車いすはかっこ悪いのです。
何十年も前から、車いすは、福祉の象徴であり、
ダイナミックではなく、カラフルでもなく、
かっこ良くはデザインされていません。
強い立場にある強い健常者が、
弱い立場にある障害のある者に、
かっこいい道具を造り出すことはいけないことのように、
どれも、みんな同じように非活動的で、地味なデザインの物ばかりです。
しかし、
とうとう見つけました。
パラリンピックなどで使われている競技用車いすを造っているメーカーが、
一般用にも作っている製品で、めちゃかっこいいのです。
このメーカーの社長は、
元バイクの有名なレーサーで、
レース中の事故で下半身不随になり、車いすを使う身になった人だそうです。
自分をかわいそうだとは絶対に思わない人だったのでしょう。
スマートでありカラフルで、
私もこれなら乗りたいと、真剣に思いました。
製品は、それを使う人を上から見下ろす様に、造ってはいけません。
自分が使うならこんなものを使ってみたいと思うような製品が売れます。
売れるということは、
それを買って使う人を幸せにする製品であるということです。
めちゃかっこいい車いす、どんな色を買おうか迷っています。