2013年07月27日(土曜日)
7.27.寂しい最強の弱い者の論理
歩行者が信号無視をする場面が目立ってきたような気がする。
特に若い子が、歩行者信号を無視して、
横断歩道の脇にたくさんの車を待たせて、
「轢けるものなら、轢いてみろよ。」とばかりに
挑発的にわざとゆっくり歩く場面を最近何度か見た。
以前はあまり見ない光景であり、
今、何かが変わってきているのを感じる。
歩行者が明らかに信号を無視しても罰則はない。
しかし、
明らかに信号を無視して横断歩道を渡る歩行者を、車が轢いたら、
車の運転手は犯罪者として罰せられる。
もちろん轢いたりしたらこれは大罪であり、
極めて重大な犯罪だ。
だが、
明らかに信号を無視して挑発的にゆっくり横断歩道を渡る歩行者は、
なんら罰せられることなく、
車に轢かれれば、単に被害者ということになる。
なぜならば、
歩行者は自動車よりも物理的に弱い立場であり、
守られるべき存在だから。
明らかに信号無視して挑発的にゆっくり渡る歩行者であっても、
罰せられることもなく、何の損を被ることもないから
正しい存在であり、正しい行為であることになる。
だとすると、
弱い者、あるいは弱い立場の者ならば、
強い者、あるいは強い立場にある者に対して、
何をしても、正しい行為であることになる。
それがどんなにルール違反の行為であっても、
弱い立場の者がすれば、それは正しい行為であり、
その弱く正しい存在の者が、強い者に対して攻撃をしたら、
それは被害者としての正当な防衛行為だという場合もある。
その反対は、すべからく犯罪行為とされることはもちろんだ。
この論理的には理不尽といえることが、
日常生活の中にはいっぱいあって、
実際には、強い者が怯えながら暮らしている面もある。
明らかに信号を無視して挑発的にゆっくり横断歩道を渡る歩行者は、
なんら罰せられることもなく、何の損を被ることもないから
正しい存在であり、正しい行為であることになるが、
しかし、
明らかに信号を無視して挑発的にゆっくり横断歩道を渡る歩行者は、
誰からも喜ばれることもなく、
誰にも、何の益を与えず、
横断歩道の脇でイライラして待つ運転手からの「怒りを受ける」だけだから、
その人は、決して喜びを得るわけでもなく、幸せでもない。
ただ単に、
なんら罰せられることもなく、何の損を被ることもないだけであって、
自分が得ているはずの幸せにも気がつかない、
残念な寂しい人なのかもしれない。