2010年10月23日(土曜日)
2638.時に人は純粋になれる生き物なのか
辻井伸行を見て感動するのは、
彼の音楽や行動、特にその姿、表情に「純粋」を見るからだろう。
私は音楽が好きでクラッシックも大好きだが、
ピアノの良さはあまり分からない。
ピアノの曲を聴いてものすごく感動することもあるが、
それは演奏する人の姿、たとえば藤子ヘミングウェイであり、辻井伸行であり、
演奏者の姿が伴って見えている時のピアノであって、
音を聞いただけで、ああこれはいいピアノだと感じることは出来ない。
それほど解っている訳ではないのだ。
若きピアニスト辻井伸行は生まれつき目が見えず、
自分の姿を見たこともないし、人の姿を見たこともない。
何も見たことがない。
その代わり、
音を聞き、陽の暖かさを感じ、風を肌に感じ、香りを嗅ぎ、味を知り、
人の声を聞いて、人の心を感じる。
見る以外のすべてを感じるので、
人間として感じるべきことはすべて感じることができるのだろう。
それを天性の音感と技術をもって、ピアノの演奏で表現し感動させる。
彼の姿や表情が「純粋」を感じさせるのは、
その姿や表情に、人の目を気にしたところがないからだ。
どんな格好をして
人からこんな風に見られたいとか、
人の機嫌を気にして自分の表情を作るとかの、
人の目を気にして作った姿や行動や表情がまったくない。
自分の感じたままの表情をし、
自分の感じたままに体を動かす。
純粋に自分をそのまま出して、純粋に心を言葉にする。
彼は自分の姿も人の姿も見たことはないから
人がどんな姿でどんな動きをしたら、
自分がどんな風に感じるのかを知らないから
自分がどんな表情をしたら人がどのように感じるのか知らない。、
だから純粋に自分をそのまま出して、
自分の感じたままに体を動かし、純粋に心を言葉にする。
これは彼のご両親が素晴らしかったのだろうと思った。
目の見えない我が子に、
人から見たら自分がどのように見えるかなんてことを、
一切、教えなかったし強制しなかったのではないのだろうか。
世間では、我が子の目が見えないのを、
他の人と違うということだけで、恥ずかしいと思い、
「恥ずかしいからああしなさい。」「こうしなさい。」と、
目が見える子と同じような動きや
同じような行動や表情をするよう強制する親がいるのではないか。
しかし、このご両親が素晴らしいのは、
たぶん、そういったことを一切しなかったことだ。
人の姿や行動が見えない我が子には、
自分の姿や行動が、人から見られると恥ずかしいなんて理解できないし、
そう言われ、扱われるのは理不尽でしかない。
ならば、あなたは目が見えないから、ああしなさい、こうしなさいと
我が子に強制することは間違っている。
目が見えないことは恥ずかしいことでもないし、劣っていることでもないからだ。
これは実に理にかなっている。
子供は親のためにいるのでない。
子供は一人の人間として存在し、
たとえば目が見えないとか、耳が聞こえないとかなんかで、
その存在の価値の意味が、ほんの少しでも減るわけではない。
だから、
目が見えない我が子を、目が見えないことをそのまま受け入れた上で、
目が見えるような格好や表情をさせるようなことはしなかった。
目が見えない子として、そのままを受け入れ、そのままを愛した。
その結果、
辻井伸行は、
人に見られることをまったく意識せずに生き、
自分が感じたままを自らの姿として純粋に表現し、行動する。
そして、
人が人から見られていることを意識しなければ、
こんなにまで、純粋な姿と行動と表情を見せてくれるものなのかという感動を、
我々に与えてくれる。
天才的なピアノの音とともに。とりわけショパンとともに。
人は、人から自分がどのように見えるかを意識しすぎだ。
自分を飾ったり、化けたり、格好つけるのは馬鹿げている。
何の意味もない。
あるとしたら自分に対するコンプレックスの勘違いでしかないだろう。
むしろ「人から見て自分はどう映っているか」の意識が自らを濁すのかもしれない。
自分が人からどういう風に見えても、
自分の一生とはまったく関係ないことを、
屈託のない辻井伸行の姿と行動、純粋な言葉と、ショパンのピアノが教えてくれる。
人間の一生とは、
人からどう見えるか、人からどう思われるか、
人からどう評価されるかで、決まるものではない。
自分自身が、どう生きたかで決まる。
彼を見ていると、自分自身が、
未だ、まったく純粋の域ではないことを突きつけられているような気がする。