2009年06月11日(木曜日)
2228.「携帯が無かったら死んじゃう」?
今の若い子には「私、携帯が無かったら死んじゃう」と言う人がいる。
私には全く理解できない言葉だが、
現代のコミュニケーションの在り方を表す一つの大きな現象である。
電車を待つホームや電車の中では
三分の一以上の人が携帯でメールを打っている。
若い女性に限れば半分以上だろう。
携帯の小さなキーボードを、
よくもまあ、あんなに速く打てるものだと感心するが、
自分もやりたいとは思わない。だいいち携帯の字は小さすぎて私にはよく見えない。
携帯メールのコミュニケーションとはいったい何であり、
今までの「会話」「文字で書いた手紙」とはどう違うのであろうか。
私は携帯メールをやった事もないし、
人の打ったメールを読んだこともあまり無いので分からないが、
その文章はもう日本語の文法など木っ端微塵で、
独特の言語になっているようだ。
これが若い子が打つと「絵文字」が氾濫していてもっとチンプンカンプン。
私には全く解読不能である。
絵文字を「日本語は象形文字に退化したのか」と非難するのは、
読めない者のヒガミなのかもしれない。
携帯メールの文字はキーを一度打てばその文字が出てくるわけではないので、
PCなどのキーボードよりも効率が悪い。
必然的に短文章になり、絵文字を多用する事になるのだろう。
しかし、絵文字は直感的であり、
国の言語を超えたグローバル性を持ってきたら、
世界の民族と国を隔てる一番大きな障害であり、戦争の遠因でもあり
相互理解を妨げる要因である「言語の違い」を一挙に取り去ってしまう可能性がある。
「手話」もその可能性を持っているが、
手話はそれを使って会話していると、
他の人もそれを見てしまうので秘匿性が低いという欠点を持っていて、
世界共通のグローバル言語として広く世界に広がる気配はない。
その点、携帯メールを使った絵文字はコソコソッと自分だけで見ればいいので、
十分に秘匿性もあり、グローバル言語になる可能性は極めて大きいのだ。
加えて携帯メールのコミュニケーションにはもっと多くの利点がある。
いつ、どんな所ででもメールを作ることが出来、送ることも出来る。
そして受け取る側も、いつ、どんな所にいても、受け取る事が出来て、
周りの状況と、自分の置かれている状況によって
それをすぐに読むか、後で読むかを選択することが出来、
返信もすぐに送るか、あとで送るかを自分で選択出来る。
本当はメールを受け取る事も、
読む事も、書く事も、送る事もしてはいけない時であっても、
いけない場所や状況、例えば学校の授業中でも、仕事中でも、運転中でも、電車の中でも
メールを読んだり、書いたり、送る事は、音を立てずに、動作も最小限で出来るので、
コソコソとやれば、出来ないことはない。
メールのすべての動作を自分の都合に合わせて行うことが出来るので、
相手も、相手の都合によってすべてをすることが出来、
お互いがお互いの都合を優先した形でメールのやり取りが出来る。
電話にもなく、PCを使ったメールのやり取りにもない、
個人の都合が最優先できる自由性の高いコミュニケーションだ。
個人の自由度が極めて高く、
グローバル性をも秘めている絵文字の携帯メールは、
ITによるコミュニケーションの最も進化した一つの形なのであろう。
しかし、いくら便利であろうと、
ひょっとして絵文字が世界の共通言語として成立しようと、
私は「絵文字」で世界中の人とコミュニケーションを取ろうとはしないだろう。
私は、絵文字はイヤだ。
コソコソと小さな画面を見ながら、
指をハヤワザのごとく動かすあの姿はイヤだ。
私は老いぼれ呼ばわりされても、多分、一生、携帯メールは使わないだろう。(かな?)
本文とは全く関係なく、
喫煙と禁煙に関わる写真が二点。
ヘビースモーカーに近かった7年か9年前の写真。
これが誰かなのかは、申し訳ないが本人の希望もあり匿名とします。
「タバコを吸わない人になった」と
訳の分からないことを宣言し、禁煙してから約5年後、
禁煙の副作用が顕著に出た典型的な症例である。