2008年02月12日(火曜日)
1845.楽しいのは結果だった
昨日・月曜日の朝、新幹線で東京にやって来て、
今日・火曜日の夜、名古屋に帰って行く。
今はその新幹線の中だ。
明日・水曜日は一日、ギチギチに詰まった予定を事務所でこなして、
明後日・木曜日の朝、また東京に来て、金曜日の夜、名古屋に帰って行く。
東京2:名古屋1:東京2のペースだ。
これでは効率が悪い。
二月中は、本社での仕事がたまっているので名古屋にいることが多いが、
三月からいよいよ東京での仕事と生活が本格的に始まり
月曜日:名古屋、火・水・木・金曜日:東京、土・日曜日:名古屋のペースとなる。
しかし三月中は、こんな週三泊四日東京の形になるのでホテル暮らしとなる。(その方が安い)
本当の意味で引っ越してくるのはまだ先となるか。
昨日、新幹線で東京に出てくる時、
その三月の予定を、サイボウズ(日程ソフト)にびっしりと入れていたら、
ちょっと憂鬱になった。
そんな気持ちが、
昨日「私は楽しむために生まれてきたのか?」と書かせたのかもしれない。
「楽しくなくたって、しんどくたって、俺は平気だ。」の裏返しである。
私はもともと喧騒の東京が苦手であったので、
「俺は楽しむために生まれてきたのではない。頑張るのだ。」と力んだのだろう。
あんなことを書いた私を心配してくれたのか、洒井さんから“檄”のメールが来て、
また、自分が書いた昨日の文章を自分で読んで、
ふと、気がついた。
「もちろん、私は楽しむために生まれてきたのではない。
私は自分がやりたいと思ったこと、
やらなくてはと思ったことを全力でやって、
それが仕事であれ何であれ、全力でやっていることが結果として“楽しい”のだ」と。
人は誰でも自分が生まれてきた意味とか、
人生の目的などと言うものは、どうやったって自分では解るものではなく、
それを知りたいと思ったら「神の声」を聞くかどうかするしかない。
それが聞こえるという人はともかくも、
私のような凡人には、それが聞こえることは多分ないだろう。
ならば、自分がやりたいと思った事、
自分の価値観で、やるべきだと思った最大限のやれる事を、
私は、やるしかない、のかもしれない。
自分がこの世に生まれてきた以上、
自分は、自分のやれる事を精一杯をやりたい。
仕事は楽しいことばかりではないし、苦労が多いこともある。
それでも、やるべき事、
つまり、自分がやりたいと思った事や、あるべきだと思った事が、
少しでも出来れば、
そんな楽しい事はないし、気分上々、幸せなのだろうと思う。
「楽しい」のは、「目的」ではなく、「結果」だったのだ。
そう気がついた。
ならば、私たち生まれてきた者の持っている目的とは、
精一杯生きると言うことになるだろう。
その一生が短かろうと、長かろうと、幸せであろうと、苦悩の一生であろうと、
その人生を精一杯生きれば、
生まれてきた者としての意味は果たされるのかもしれない。
そう考えると、
戦争で死んでしまった人でも、
生まれてすぐに命を落とした赤子でも、
社会で大成功した人でも、そうでない人でも、
それが精一杯生きられたものならば、
生まれてきた意味を、等しく、十分に果たしたことになる。
人生を楽しむ事とは、精一杯生きるという事ならば、
私は人生を精一杯楽しめばいいということになる。
私は、仕事が大好きだ。
自分の仕事で、みんなが少しでも幸せになれるのならば、
仕事のし甲斐があるというもので、
そんな仕事で精一杯頑張れるのならば、それは、無上の楽しい事に他ならない。
「私は楽しむために生まれてきたのか?」と、
解決のないパラドックスに陥ってしまったのは、
私が「目的」と「結果」を間違えた思考に入り込んでしまったからなのだろう。
そうです。
洒井さんの言うとおり、
私は、仕事や、遊びや、生活を人一倍楽しんでいるのです。
たしかに楽しんでいますね。
私の名前は「好通(ヨシミチ)」、「好きで通す」なのです。
私はよく笑う。
鏡を見ると私は一見怖い顔だが、笑うと実に楽しそうな顔になる。
どう見ても、私は生きていることを楽しんでいるようだ。
昨日の「接客研修」、
テーマの「スーパースマイル」で、
都築君が見せてくれた精一杯のスーパースマイル。
彼も実は、精一杯仕事をして、精一杯生きて、人生を精一杯楽しんでいる一人なのである。