2019年01月07日(月曜日)
1.07.時間の流れを思う。
私達は縦×横×高さの三次元の世界に住んでいて、
そのいずれの方向も自分の自由になっている。
しかし、その三次元の世界に加えて時間の要素があるが
この時間だけは全く自由にならず、
あくまでも一定の速さで、未来への方向に進み続けている。
アインシュタインの相対性理論によると、
光に近いスピートで移動すると時間はゆっくりと進むらしいが、
そんなことは全く理解できないし、一生かかっても関係することはないだろう。
時間はあくまでも、あくまでも未来に向かって進み続ける。
ほんの一瞬でも止まることなく、
どんなに強く正しく願っても、
一秒たりとも遅れることなく非情に公正に進み続ける。
自分と同年配の有名人が、
ひさしぶりにデレビに出ていたりすると、
その老いの進み具合に狼狽することがたびたびで、
あるいは、
自分よりはるかに年配であるはずなのに、
自分よりはるかに若く見えたりすると、
覆い隠された老いの証拠、あるいは造られた若さの演出を探したりして、
あくまでも許そうとしない。
時間は人によって進む速さが変わる訳ではないのに、
その人によって感じようは随分違うもののようだ。
たとえば、痛みを我慢して時間が経つのをこなしている時は、
時間が経つのがたとえようもなく遅く感じる。
反対に、楽しく、気持ちの良い時間は、もっともっとと思っても、
あっという間に過ぎて、すぐに終ってしまう。
時間の流れというものは、
早く経って欲しいと思えば遅く感じさせられ、
逆に、この時が過ぎて欲しくないと思えば早く感じるものなのか。
だとするならば、
不幸ほど長く感じられ、幸せほど短く感じられるとするならば、
それは人にとって不条理に他ならない。
もう一つおかしなことがある。
全く役に立たないゲームなどを夢中でやったりしていると、
その時間が消えて無くなってしまったように短く感じられて、
喪失感だけが残るのは、幸せの一種なのか。
だとするならば、
それは麻薬と同じ効果で、
それをやっている時だけがこの上なく楽しく幸せで、終わると何も残らず、
逆に、それを禁止されると辛く、
我慢する時間が耐えられないほど時間が長くなって、
また、麻薬におぼれるのと同じように、ゲームなどに溺れて、
人生を楽しいだけで短い時間にしてしまうことになる。
テレビのニュースで言っていたが、
ゲームに夢中で、まだ幼い自分の子供に食事を与えることもせず、
その子を餓死させた若者がいたそうだ。まるで麻薬と同じだ。
人は自分が楽しい事を求め続けて、
楽しいことに溺れていると、
自分の人生を短いものにするだけでなく
自分の子すら殺してしまう残忍な化け物なのか。
その点、仕事はいい。
仕事とは、たとえばお客様という相手が喜び、
相手が嬉しいことを”目的”として行う。
だから相手から代金という報酬をいただける。
だから、その時間は決して楽しい訳ではなく、快楽がそこにある訳ではない。
時には時間が長く感じることもある。
しかし、相手が喜ぶことを楽しみに出来る人は、
それが楽しみであり、嬉しいことで、それが快楽ではなくても苦痛ではない。
快楽とは正反対の”やり甲斐”というものなのだろう。
しかも、そこから得られる報酬で、
大切な、大切な家族を養い、愛し続け、幸せを造り上げることが出来る。
自分の為でしかないゲームに夢中になって溺れ、我が子を餓死させた
人ではない化け物とは正反対だ。
仕事は、たとえばお客様という相手の人を幸せにして、
やり甲斐を生み出し、正しい報酬で、
愛する我が子と家族を育み、自分も代えがたい幸せを得る。
自分に快楽を与えるだけの麻薬やゲームなどとは正反対だ。
このお正月、仲間からもらった年賀状に、
これでもかと、多くの人がたくさんの家族の写真を誇らしげに載せていた。
特に子供たちの姿をいっぱい載せていた。
そんな彼らは仕事の意味を理解し、幸せの意味を理解しているのだろう。
そんなことをしみじみ思ったのでした。
年末にお正月に間に合わせようとトリミングを予約しようとしたら、
年末は予約で満員で、正月明けの予約しか取れなかったリンダは、
年末からお正月にかけて、”毛”に埋まって、毛のお化けみたいになっていたが、
ようやく今日の夕方、トリミングしてもらえて、
普通にトイプードルになっていた。
今朝のリンダ
さっぱりして帰ってきたリンダ。