2004年07月01日(木曜日)
986話? 2泊2日の上海
(この話は6月30日に書いたものです。)
28日から30日の社員旅行・第2班には、
私は29日より一日遅れで参加することにしていた。
“参加する”ということにしていたが、
29日には上海での活動についてのミーティングをやり、
30日には上海から車で片道4時間の“寧波”まで行って仕事をする。
そんな予定を入れてしまった。
結局、社員旅行に参加するといっても
2日目の夜の食事と、上海雑技団の見物をみんなと一緒にするだけで、
第一斑の時と同じような形になってしまった。
ホントに申し訳ないと思っている。
30日、寧波から夜遅くに帰ってきて
7月1日の朝一番の飛行機で名古屋に帰る2泊2日の変則出張となった。
やはり上海には、そうしょっちゅう行ける訳でもないので(行ってるか?)
行くとなると、どうしても色々な“どうしても・・”が入ってきて、
こんな風になってしまう。
それでも、みんなとの上海での会食は最高に楽しかった。
招待客として
上海総代理店・車聖の任社長、陳さん、鮑さん、冷さん、そして我が友・頼さん
そして、我がアイ・タック、快洗隊、の面々27名
そして、今は
30日、“寧波”からの帰りの車の中でこれを書いている。
“寧波”は、上海から高速に乗って、まず西に向かってから南下していく。
朝、通勤時間の真っ盛りにホテルを出て
一軒お客様の事務所に寄ってからの出発で上海の街を出たのは10時半ごろ
上海の中心街から上海の出て、
ベットタウンというべき郊外のマンション群が途切れるまでに30分ほどかかる。
いつまでも続くマンションに
上海の世界一の人口の奥深さを体感させられる場面だ。
周囲からマンションが見えなくなっても、比較的古い集合住宅がまたしばらく続く。
どこまで走ったら住宅がなくなるのか、恐ろしいまでの人口である。
この頃になると
青空が見えてくる。
上海の街を外に出たら、青空が見えた。
上海の街のあのどんよりとしたグレーの空はやっぱり慢性的なスモッグだったのだ。
1時間もすると、やっと田舎になって
その後も田舎の家が点々と続く。
決して途切れることはない。
途中で「サービスエリア」に寄った。
ちょうど12時、サービスエリアで昼食をとることにした。
エリア内のレストランはセルフサービスで、
ちょうど社員食堂のような感じ、
中国の人達と一緒になって列に並ぶ。
並んでいる料理は、さすがに日本のそれとはかなり違う。
社員旅行で中華料理に悲鳴を上げた人達が見たら、多分、気・絶・す・る。
中華の香り(ニオイ)もバンバンで、料理の姿も決して上品ではない。
私はヨダレが垂れてくるのではないと思うほど、それがうまそうに思えて
思わず食べきれないほど取ってしまった。
食べたら、これがまた、うまい!
特に中国独特の香辛料がたっぷり入ったアクの強いやつがうまく感じる。
上品なレストランでの食事よりむしろ、うまい!と思う。
私は、どんどん中国に体がなじんでいっているようだ。
うれしいやら、なんというやら。
複雑な持ちである。
ランチを食べてまた出発
すぐに渋滞にハマる
すぐさま旧道に回り、時間的にロスはあまりなかったようだ。
しかし、下の道は結構凸凹で、
さすがに走りながらパソコンは気持ち悪くなり、ちょっとだけ寝ることにした。
一区間下の道を走り、高速に戻ってしばらく走ると“杭州”に入る。
“杭州”と書いて“コウシュウ”と呼ぶ。
もっと南の大都市“広州”も、“コウシュウ”と呼ぶのでややこしいので、
杭州は、“クイシュウ”の方の“コウシュウ”などと訳の分からない言い方をしている。
杭州は、新しい新開発の街と、今までの街がはっきり分かれていて、
その両方が何十キロも離れて作られているのだ。
それは、大連と同じようであった。
古い杭州はかなり広い街で、
一つ一つの家が、屋根がとんがっているのが特徴的で面白かった。
中には、屋根の上に“エッフェル塔”のようなテレビアンテナを立てている家も多く、
とにかく家のてっぺんが“尖がっている”のが、
この街の家のアイデンティティーのようだ。
杭州を通り過ぎると、紹興酒で有名な“紹興”の街になる。
上海を出て、そろそろ250km
紹興の街は水が豊かで、周囲は田んぼが多く、今、田植えの真っ盛り。
ここ中国ではまだ昔懐かしい手植えでの田植えが当たりのようだ。
周囲の景色は山が見えてきて、素晴らしい青空とマッチして
さわやかな景色を作り出している。
この辺でパソコンの電池がなくなったので、
とりあえず一休み。
まだ、寧波までは距離がある。