2004年05月31日(月曜日)
967話 諸行無常の中で
「諸行無常」という古い言葉があるが、
この世にあるものすべて、何一つとして変わらぬものはない。
という意味と習った。
何かうまく行って、良かった良かったと思っていても、
それも、いつまでも良かった状態が続くわけではなく、
いつかは壊れるものだ。
何事もなく安定して、心安らかなる一生などは、人がこの世でいくら望んでも
決して得られるものではない。
人は、それぞれが持つ欲望による関わりを、常に他の人に対して持ち
それによる影響を受けない場所は一切なく、一時もない。
だから、安定し心安らかな場所もなければ、時もない。
あったとしても、つかの間の夢のようにはかないものだ。
人は、今の自分の置かれている状況に決して満足はしていないのだから、
その状況を変えたいと思い、変えようと行動する。
その行動の集まりによって、大きな状況は常に変わり続け、
留まることのない状況の変化が、時代を変遷を作っている。
その中で、一人で安定を求めてジッとしていると、
前に進もう、前に進もうとする時代の変化に置いて行かれ、
あるいは、後に蹴り飛ばされ、
時代の中で役に立たない敗者となって、不安と不安定の中に叩き込まれる。
しかも、自らが敗者である事があからさまになる事が恐ろしくて、
隅にかがみこみ、ジッと潜もうとするので、余計に時代から置いてけぼりになる。
時代から取り残されること
それが怖くて、多くの人が時代の流れに乗ろうとするし、
積極的な者は、逆に時代を作り出していく者になろうとする。
人が生きている事自体が、本来的に不安定であり、不安であるものならば、
どうせ安定しないのならば、
重心を思いっきり前に持っていって、前のめりになって前に進み、
時代を変えていく力の一つになろうとする。
そして、それが成された時、自らを勝者であると考える。
しかし、これは大変エネルギーを要することであり、疲れる。
しかも、勝つことによって心の安らかさを得られるわけではない。
欲望とは、求めたものが得られたその瞬間に、
次なる欲望が湧き出て来るものであって、
決して満たされることはないのだ。
もう一つの手段がある。
それは「ふり」をすることだ。
豊かでもないのに、豊かであるような“ふり”をする。
ほとんど不幸であるのに、幸せであるような“ふり”をする。
不満の塊であるのに、満たされているような“ふり”をする。
不安でいっぱいであるのに、安らかであるような“ふり”をする。
つまり“格好”だけで、実体はないわけである。
これは簡単である。
格好をするだけで、内実を作り上げる努力は何も要らないわけであるから、
いかにも安易な方法である。
そして、“ふり”をすることによって、
周りの人から
自分が豊かであり、幸せであり、満たされていて、安らかであるかのように
見られることによって、
自分の不安を落ち着かせること。
しかし、これは、バレれば元も子もないし、余計に惨めになるだけで、
また、自分で思っているより、実は簡単にバレているところに情けなさがある。
人は一体どうしたいのであろうか。
私は一体どうなりたいのであろうか?
激しく動いた後、ふと、立ち止まって
思いにふけってしまうこともある。
エントロピーの法則というものがあり、
「必ず熱は高い方から低い方に伝播する。」というシンプルな法則によって、
ビックバン以降、いかなる事象があったにしても、
絶対的な熱伝播の法則によって、
時間が無限の長さを持っているとしたら、
ほぼ無限に近い時間の流れの中においては、宇宙全体が均一な熱に満たされて、
あらゆる物質の均質によって重力のバランスも取られ、
動かない温かいスープのようになるという予言がある。
安定の極みであり、安らかさに満ちた宇宙。
これは不気味である。
この世が諸行無常とし、一時の安定もなく変わり続ける中においては、
人は、安定と心の安らかさを、
得ようと思っても得られぬ“理想”と思うが、
実際に絶対的な安定と安らかさが手に入ったとしたら、
絶望的に“つまらない”と思うのかもしれない。
そう思っていくと、やっぱり、激しく動いた方が良さそうだなぁ
なんて事も思うのです。