2002年10月09日(水曜日)
541話 クジラを食べる
ドイツのホテルでの
SONAXのスタッフの人たちとの食事会
私が、デンマークのFINNさんと“マグロの燻製の作り方”で
盛り上がっていた時
Mが、「日本人はクジラを食べるんですよ」と言った
一時的ではあるが
シラッとした空気が流れた
そして、その話は無視された
また、この間
クリーガー氏が、わが社を訪問してくれたあと
名古屋駅前の居酒屋で酒を飲んだ
私とM
SONAXクリーガー氏と、日本代表の吉村さん
4人で盛り上がったのだが
その時
世界中を飛び回っているクリーガー氏と
世界の食べ物の話になった
何かの拍子に
Mが「日本ではイルカを食べるところもあるんですよ。」
と言ったところ
吉村さんが、「そんなこと訳せませんよ」
と、たしなめた
すぐに他の話題になり
言葉の意味がわからないクリーガー氏は
相変わらず盛り上がっていたが
一瞬、気まずい空気が流れた
欧米人にとって
“クジラ”“イルカ”を食べるなんてことは
野蛮であり、残酷なこと“らしい”
私は、さすがにイルカは食べたことはないが
クジラは大好物だ
クジラのベーコンなんて、考えただけで唾が出てくる
クジラを食べることは残酷なことなのだろうか
中国では“犬”を食べる
普通の料理として“犬料理”があるという
私達は、それを残酷なことだと感じる
私はまだ“犬料理”を食べたことがないが
中国に何度か行くうちに、出てくるかもしれない
その時、私は、それを食べることが出来るだろうか
欧米人が、クジラを食べる日本人に感じる感情と同じようなものだろうか
捕鯨をめぐる国際会議で
「ミンククジラは20万頭(?)いて、資源として十分であり
捕獲しても、種として絶滅する危険はない」と、日本は主張するが
捕鯨に反対する人たちの理由は、実はそんなところにあるのではなく
クジラを“資源”と言う、その神経そのものが
理解できないのではないだろうか
では、なぜクジラを食べることが残酷なのか
「クジラは高い知能を持っているから」だと言う
ならば
牛は、素晴らしく頭のいい動物だ
人によく慣れるし、芸だってする
馬だってすごく頭のいい動物で
人と友達になれる
ニワトリだって、鳥の中では頭のいい方だ
昔、飼ったことがあるが
よく慣れて
すごく可愛かった
「牛や、馬、ニワトリは人が作った家畜であって、自然の動物ではない
家畜は、人が食べるために存在しているのだ」
だから、食べてもいいのか
家畜が人のために存在しているかどうかは、人に決めているだけで
家畜にしてみれば
そんなことは、知ったことではない
そんなつもりで生まれてきたわけではないだろう
私は考えたことがある
私が死んで生まれ変わったとしたら、何になりたいか
家畜だけはイヤダ、と思う
食われるために生まれて
食われるために、自分を食う人間からエサを食わされて
食われるために育って
自分を食う人に、食われるために可愛がられて
食われるための子供を産んで
食うのにちょうど良くなった頃に
絶対に逃れることが出来ない状況で、殺される
自分を食う人間と戦うことも許されない
こんな残酷なことがあるだろうか
「食われるために、生まれて、育って、子を産んで、戦うことなく殺される」
生まれ変わったら、家畜にだけはなりたくない
自然界に生まれて、生きるために闘い
その結果、負けて
食われるのは
それが自然のことならば
受け入れることが出来るような気がするが
家畜を食べるのも、自然に生きているものを食べるのも
同じではないだろうか
私達は、毎日何らかの形で、生きていたものを食べる
そのことは残酷なことでも何でもないと思う
自然なことだ
食べることは自然なことだ
自然界の動物の、種の絶滅は
人が食べたことが原因であったことはほとんどない
今、マイワシが激減しているという
かつての漁獲量の1000分の1になってしまった
とニュースで言っていた
マイワシは、人に食べられるのは
獲られた量のわずか1%であって
そのほとんどは、飼料になって家畜に与えられているという
ニシンは
その昔、北の国にニシン御殿を建てたほど
無尽蔵に獲れた
しかし、ニシンは食べられたのではなく
数の子を取り、身のほとんどはニシン油をしぼられ
しぼられたカスは肥料として利用された
そのうちニシンは激減し
ある時からぱったりと
浜に姿を見せなくなった
アホウドリは
その豊かな羽毛が
一級の羽毛布団の材料として、乱獲され絶滅した
その市場は主に欧米であった
日本の朱鷺(トキ)もそうだ
美しい羽毛を目的に、乱獲され、絶滅した鳥類は非常に多い
アメリカンバッファローは、ゲームハンティングで
膨大な数が殺され
絶滅の危険があるところまで追い詰められている
人が食べたから絶滅した生き物は
生息地が限られ、絶対数が非常に少ないものだけ
たとえば
カラパゴス諸島の「ゾウガメ」は
大航海時代
航海の途中、ガラパゴスで捕獲され
船乗りの保存食として
生きたまま船上に転がされ
貴重な蛋白源として
航海中に食べられた
ゾウガメは
ガラパゴスという非常に狭い地域だけで
生きている絶対数の少ない生き物であったので
一時、絶滅の危険があった
こういう事は例外としてある
しかし、人間が食べたから絶滅の危機に瀕している例は
非常に少ない
一番多いのは
環境破壊である
その生物が棲む環境を切り開いてしまい
生きていく所が無くなって絶滅した種が、どれほどの数に及ぶか
私は、生き物を食べることを、残酷なこととは思わない
むしろ、それは自然なことであり
食べることにより、その生き物を尊重したことになる、とまで思っている
残酷なのは
自分の快楽のために殺して、殺しただけで食べないこと
食べる目的で殺したのではなく、殺すことが目的で殺すこと
それより何より
環境を壊さないこと、これは絶対条件である
しかし、これは個人的レベルでは解決できない
個人的レベルでの話で
一つ名案がある
「殺したら、殺した本人が責任を持って食べること、あるいは食べさせること」
生き物を殺したら
その理由が何であれ、そのすべてを“人間の胃の中”に収める
食べることによって
殺した生き物の存在を尊重すること
こんなルールが出来たら
種の絶滅から救われる生き物がどんなにあるかもしれない
殺したら、責任を持って食べること
圧倒的な存在感を振りまく「トンボ」
アフリカケズメリクガメの「トンボ」を、仕事をサボって見ていたら
めくるめく
ボーっと、そんなことを思い巡らせたのでした。
ちなみに、彼の(トンボはオスである)右の鼻の穴に引っかかっているのは
キュウリの切れ端である。