2022年06月17日(金曜日)
06.17.認めたくはないが、私も宿命に縛られている。
私が持っている宿命、
自分ではどうにもならない宿命とは、
自分では認めたくはないのですが、足が不自由である事なのでしょう。
4歳の時に罹ったポリオ(脊髄性小児麻痺)は、
私の命を奪うことはなかったのですが、
(村上龍さんは小学校の時、同級生がポリオで2人死んだ。と言っていました。)
左足に麻痺と委縮の後遺症を残しました。
それでも、私がまだ小さい時は、
自分がビッコをひいて歩いている事や、スキップが踏めない事、
走ると必ずビリになることを憶えているぐらいで、
これを障害だと意識する事は全くありませんでした。
「背が低い」とか「近眼」とか「太っている」というような事と
自分のビッコも、同じようなものぐらいにしか自覚していません。
単なる個性の一つでした。
それが中学校の頃になってくると少し変わってきます。
中学では、親が高校受験を意識するようになってきて、
私は親父から
「好通、お前は足が悪いから立ち仕事は出来ないんだから、しっかり勉強して、
学歴着けて、座って出来る職に就かなきゃイカン。足が悪いんだから。」と、
しょっちゅう言われて、
自分の足の不自由を、反発と共に否が応でも意識しはじめた。
高校は進学校に入ったが
「お前は足が悪いから勉強するしかないのだ。」に反発して、
あえて「柔道部」に入った。
私の柔道は変則的で、部内ではそれほどではなくても、
対外試合になると、慣れていない相手に変則柔道は強く、
小さな大会ではあるが、名古屋市のベスト8に残った事があります。
しかしこれは、
足の不自由を「若さ」ならではの体力でカバーして出来てしまった事であり、
別に宿命を克服したという訳でない。
仕事を選ぶ時も、立ち仕事の代表のようなガソリンスタンドマンになったのは、
まだ十分な体力があったから立ち仕事がそれほど辛かった訳ではなく
選んだ職場の中で一番給料が良かったから選んだだけで、
自分の足の不自由を克服する為、
あえて立ち仕事に立ち向かったという訳ではない。
ガソリンスタンドマンになった動機は「一番高給であったから」に過ぎない。
ガソリンスタンドでの仕事はきつかったことは確かで、
年齢が三十才台に入る頃には、これをこの先までずっと続けるのは、
自分が持っているハンディを考えるとやはり難しいと思った。
しかし学歴もなければ、有力な血縁も縁故もない自分には、
肉体労働を伴わない種類の管理職になることは難しいと思えた。
そこで、
独立して最初から社長になって、その会社を大きくして、
否が応でも一番上の管理職になるしかないと思って、起業しました。
これが、自分の宿命が原因になって起こした
最初の行動であったかもしれない。
起業した業種は熟練したガソリンスタンドの経営でしたが、
一軒目の運営はうまく行って、すぐに2軒目を考えたが、
この先、多店舗になっても「商品担保」が都合できないことは明白だったので、
担保の要らない「洗車とコーティング」のビジネスに方向転換をはかった。
担保がなければ、
自分が現場に立たなくてもいい大きな会社には成長できないと考えたから。
そういう意味では、
足のハンディから解放されたいがために今の方向に転換したのは、
ラッキーであるとしか言いようがない。
結果的にではあるが、私の宿命が、私を幸運な方向に導いたと言える。
あれからの人生の半分は、
ドイツに出張に行った時、フランクフルト空港でトランジットした時に、
空港内での徒歩での移動があまりにも長く悲鳴を上げたことぐらいで、
それも次回のドイツ行きから、
Finエアーでのヘルシンキ経由に変更して
空港内の移動も短くなってトランジットも解決した。
その他には、足のハンディで苦労した記憶がない。
しかし、60歳を超えた頃から、足首の関節の骨の変形が進んで、
100m程度の歩行が難しくなってきたので、
超軽量の車いすを手に入れて、
新幹線のホームや飛行機に乗る時に空港で利用したり、
美術館や博物館などゆっくりと見て回る時、あるいはデパートなどでも、
この車イスによって快適にゆっくり見て回れるようになり、
何の不便もない。
しかし今、70歳を迎えて、
ますます足の形がダメになって、装具無しでは短い距離も歩けなくなってきて、
そろそろ観念する時を予感するようになってきて、
自分の宿命を、負の宿命として感じるようになってきて、
私も、自分の持っている宿命に
縛られていることを認めざるを得なくなってきました。
しかし、少なくともあと三年ぐらいは、
自分の宿命に逆らってみようと思っています。負けるのは大嫌いです。