2024年12月04日(水曜日)
12.04.今が、テレビが生き残れるかどうかの境目かもしれません。
兵庫県、齋藤知事のパワハラ事件から不信任、失職、選挙、復活当選。
そして新たに公選法違反疑惑という醜聞が続き、
兵庫県政の滞りが続いています。
醜聞告発の先兵はテレビ、
地上波のバラエティショーと呼ばれる井戸端会議番組。
そこでは、お笑いタレントを軸としたコメンテーターが並び、
一般世論的な雰囲気を醸し出す時間が余ってるおば様層多数名。
これ等をはべらせた形で、
正義の味方を標榜するMCが、
たまたま目立ってしまった標的を、
根掘り歯堀り、重箱の隅を突つきまくって
皆が期待するような方向にストーリーを誘導して行って、
総意の形をもって血祭りに上げていく。
兵庫県知事にまつわる件ならば、知名度が高いので余計に格好の標的だ。
テレビは、あくまでも視聴率が優先するので、
話題になっているその事が良いか悪いか、正しいかどうかというよりも、
その話題がどれだけみんなの興味を引いて、
どれだけみんなが面白いかが、すべてと言っていい。
逆に、みんながその話題に飽きれば、その話題にはもう触れようともしない。
あくまでも優先されるのは視聴率。多くの人の興味を引くかどうか。
しかし、
実際にテレビの番組を造っている人達は、
それぞれに自らの志を持っていて、
TVの世の中に対する影響力もよく知っていて、
常に正しくあろうとしています。
しかし、視聴率がすべてを決めて行く世界であることもよく知っている。
地上波のテレビは、特に朝や昼間に放映されているバラエティ番組は、
視聴率を追求するあまり、興味本位に走りがちであり、
小さな事をことさらに偏った見方でオーパーに騒ぎ立てる傾向があります。
それもどの局のバラエティ番組も
同じような傾向のMCとコメンテーターを用意するので、
同じような方向性を持ってしまいがちになり、
これが世論の大勢であるような錯覚が生まれます。
テレビのバラエティショウなど軽いマスコミが、
かつての新聞や雑誌などの文字文化に代わって、
世論の大勢を形成したような時代もありました。
この場合、個である私は、あくまでも受け身でしかなかった。
しかし、SNSが大きな力を持つようになってくると、
様相がガラッと変わってきます。
SNSは、Instagramであれ、Xであれ、YouTubeであれ、ブログであれ、
基本的に”個人”であり、
受信者であると同時に発信者でもあります。
つまり、個人が受診したニュースに対して、
自分の意見を乗せて、より大きな声で、より広く発信する。
自分が受けた一つのニュースに、
自分の意見を付けて、あるいは自分なりの解釈で翻訳して、
無限の拡がりを持つWebの大海原に放ち、拡散する。
それを
検索などで選択的に拾った人が、
又は、フォロワーという名の共感者、支持者、友達が
又は、たまたま拾った見知らぬ人が、
その記事の自分の見方に合った部分を切り取って、また拡散する。
SNSの拡散は、個人が、個人の主観を付加しながら拡散するので、
客観的事実とかけ離れた内容になったとしても、
誰も気着かなくなってしまうこともある。
これはこれで恐ろしい事です。
しかし、ものすごくたくさんの個性と価値観を持った人が参加するので、
偏向性がより強くなる傾向もありながら、
主観が圧倒的多数になると、それは客観性と似てくる訳だから、
逆に、意外と公平性を持ってしまうことが多い。
少なくとも、
テレビなどのマスコミが視聴率などの営業的成績獲得の為に、
物事を面白おかしくしてしまうような偏向性よりも、
よっぽど客観的であり、真実に近い公平性があると
多くの人が思うようになっている。
SNSは多くの価値観を持った人が、バラバラの意図をもって、
その人がその人の見方で真実だと考えた事を、制約なしで発信するので、
広い意味で言えば客観性を持ちうるが、
その一つ一つの要素を取り上げてみれば主観性の塊であるとも言える。
だから、SNSならではの危険性もある。
間違った見方が多数になってしまった場合、
その間違った見方が正しいという事にもなり得る。
デマの恐ろしさと同じだ。
SNSは反体制のアジテーション(扇動)の最高の武器にもなる。
だから、独裁者の専制国家にとってはSNSは危険極まりない存在で、
中国などでは、SNSは”常に”権力当局によって監視されており、
権力側にとって都合の悪い情報は、
見つけ次第、即刻削除されているのだそうです。
専制的権力者にとって一番怖いのは、民衆の「自由」であり、
そういう意味では、SNSは権力者にとって最も怖いツールでもある。
逆に、専制的な権力者が最も多用するのが、
権力者に都合の良い情報を選択的・意図的に流すいわゆるプロパガンダであり、
それはSNSと正反対の特徴を持ち、
古代から存在していて、今や化石化しているはずだが
信じがたいことに、今もって世界の中ではプロパガンダが多用されている。
人々の自由なSNSは独裁権力の徹底した削除攻撃にさらされ、
執拗に流される多量のプロパガンダに圧殺されそうに見えるが、
人々が勝手に使うSNSは、
強い意志を持って使われている訳でもないので、
権力側がちょっと手を抜けば、雑草のようにあっという間にのさばってしまう。
文字通り雑草のような逞しさを持ったSNSは、絶対に根絶する事は出来ない。
いずれにしても、SNSの善し悪しはあったとしても、
これからの時代、世論形成の主軸になっていくことは間違いないのでしょう。
そこで、これまでの主役であったテレビがどう生き残っていくのか。
今のテレビは、視聴率を追求するあまり興味本位に走りがちであり、
小さな事をことさらに偏った見方でオーパーに騒ぎ立てる傾向があります。
少なくとも、
SNSの方が、よっぽど客観的であり、真実に近い公平性があると
多くの人が思うようになっている。
テレビがこのままこの路線を強く推し進めていくと、
SNSに負ける事は明白です。
現にテレビが圧倒的な優勢を伝え続けた兵庫県知事候補が、
SNSで盛り上がった齋藤元知事に大逆転で負けました。
これはある意味、テレビというオールドメディアが、
SNSというニューメディアに負けた象徴とも言えます。
しかし、その後、兵庫県知事に当選した齋藤知事が
SNSを使ったPR会社との金銭授受が公選法に触れるのではないか、
そんな疑惑がクローズアップされてから、
選挙で負けたオールドメディア・テレビは、連日取り上げて、
弁護士などの有識者などに意見を言ってもらうなどして、
反・齋藤知事のキャンペーンを繰り広げているように見えます。
しかしこれは、
まるで、知事選でのオールドメディアの敗北で負った傷を
テレビがさらに深めているだけの逆効果に思えて仕方ありません。
悪あがきに見えます。
テレビとSNSは、闘うべきではなく、
かえって、それぞれの特徴を補完し合って
お互いにメリット・デメリットをもって共存していくものであるべきでしょう。
本文とは関係ありませんが、
KeePerも参加してきた「インタープロトスポーツ(IPS.)」の総集編広告の原稿です。