2001年09月14日(金曜日)
222話 一人の人
3日前、ニューヨークでのテロ
あれを観ていて、思ったこと
飛行機が突入したとき、一瞬のうちに何千人かの人が死んで
そのあと、必死にビルから逃げ出そうする、また、何千人かの人と
救助のために駆けつけた何百人かの消防士、警察官の人が
ビルの倒壊のとき
また、一瞬のうちに死んで
今また、生き埋めになっている人々が、次々と息絶えているのだろう
また、そのほかにもいっぱい死んで
一体、何人の人が死に、死に続けているのだろう
一説には、一万人を越すかもしれないと、テレビが言っていた
私は、7月に一人の人を亡くした
父を亡くした
その重みは、私が想像していたものとは大きく違った
いることが当たり前であった“人”が
いなくなってしまうことが、こんなに寂しいものとは思わなかった
一人の人は、その関わりの中で生きている
一人の人が亡くなると何十人、何百人かの人が
大きな悲しみを負う
そんなことを実感として味わった
あのテロでは、一瞬のうちに
あるいは短時間のうちに、あの膨大な数の人が亡くなり
それの何十倍か、あるいは何百倍かの人が、悲しみを負うことになった
それも、消息が取れないという長い時間
真綿で首を絞められるような、苦しみの時間を強いられながら
なんという残酷なことであろう
それと引き換えに
犯人たちグループは何を得るのであろう
宗教的な信義か
民族的な恨みが晴れることか
政治的な勝利か
一万人に上るかもしれない“死”と
何百万人もの、大きな悲しみと
何億、何十億人もの恐怖と悲しみと
引き換えのものが
そんなものか
たった、そんなものか
くだらない!
一人の人
たった一人の人から受けた悲しみと、寂しさを思うと
それと引き換えに出来るものなど
たった一人であっても
何もないということを実感したあと
あのことが
たとえようもないほど
残虐であり、人でなしの行為と、言わざるを得ない
今もなお
瓦礫の下で、絶望的に、息だけしている人が、まだきっといるであろう
自分の愛する人の、ほんの1%にも満たない生存の可能性に
満身の祈りを続けている人がいるだろう
私は、今、何事もない平和で静かなところで、これを書いている
外には長崎の夜景が美しい
50年以上前
この長崎には原爆が落とされた
其の時は、ニューヨークの悲劇の何倍かの惨劇が、ここで繰り広げられた
広島でも同様であっただろう
何万、何十万もの市民が
加害者になり得ない人たちが、自分を殺すものの姿を見ることなく
不意に殺された
この悲劇と、何の違いがあるだろう
今回は被害者であったアメリカが
戦う意思の無い市民を、無差別に殺した、という事実においては
あの時は、明確に、残虐な加害者であった
どんな理由があろうとも
その引き換えに何があろうと
決して正当化できない、人間の最も醜い残虐な行為
自分の平和をしみじみと感じるとともに
何事もなく、静かなことが
かけがえのないものであることを、深く感じる
あまりにも多くの人が
無念のうちに死んでいった長崎の地で
感慨が深かった
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