2008年04月22日(火曜日)
1897.ずっと そばにいて欲しい
私は何かで「愛することとは、相手の幸せを願う気持ち」という言葉を読んで、
なるほどと思い、ずうっとそう思ってきた。
しかし最近、ちょっと違うなと思うことがある。
先の言葉が間違っているという意味ではなくて、
では、なぜ「相手の幸せを願う気持ち」になるのかを考えたのだ。
名前は知らないが女性シンガーの歌で、
「ずっと、そばにいてね・・・」という出だしで始まる曲があって、
ジーンと来た。
その前には、別の女性シンガーの歌で、
突然若くして死んでしまった恋人を想い、「会いたい・・」という曲を聴いて、
たまらなく切なく、涙が出てしまったことがある。
「ずっと、そばにいてね。」「会いたい。」とも、
愛する人と一緒にいることに幸せを想う気持ちが溢れている。
愛する人と一緒にいるということが、この上ない幸せならば、
その反対の別れるということ、
とりわけ永遠の別れとは「死」であり、それはいつも、とても悲しいことだ。
しかし、あらゆる宗教とスピリチユアリズムが言うように
人は死んでも魂は永遠に残るとするならば「死」は、本人の不幸とは限らず、
むしろ救いであるのかもしれない。
しかし、「死」が悲しいのは、
もうその人と会えないという意味での悲しみなのかもしれない。
ひょっとしたら「愛」とは、魂の共鳴なのかもしれないなと思った。
だから、一緒にいることだけでこの上ない幸せを感じるのだと。
たとえば、
親子の愛とは、血のつながりによる魂の同調であって、
魂同士の共鳴の一つの形かもしれない。
男と女の愛で言えば、
運命的にお互いが持っている魂の波長が合って共鳴することか。
しかし、それ以前に
ある人にとっては子孫保存のための生殖本能だけから来たものならば、
すべての動物の雄と雌との繫がりと同じでしかないから、
むしろ本当の動物同士の方がそれ以上の愛情を持っている様にすら思えるので、
どうも、それ以下のようだ。
あるいは、女が男に経済的な繋がりだけを求めるものならば、
それは契約的であり、打算的であって、
女は男の経済力にしか興味を持たないはずで、
共生ではなく一方的な寄生の関係であり、長続きしないし、
いずれにしても情けない人生で終わるのだろう。
しかし本当の男と女の愛とは、
いや、男と女の関係以外でも、
血のつながりを持たぬ他人同士であっても、
まさに会った瞬間に
「あっ、この人だ。私はこの人と一緒になるために生まれてきたのだ。
この人は、私と一緒になるためにいるのだ。」
そんなインスピレーションを感じる劇的な瞬間がある。
本能的でもなく、打算的でもなく、運命的な出会いを感じさせる時がある。
その多くは、男女の間で、そこから一生、
いずれかが死ぬまで続く運命的な出会い。
魂と魂が同じ波長で響き合い、
共鳴するような運命的な愛の在り方もある。
それが会った瞬間ではなく、長い付き合いの中で育まれることもあるのだろう。
愛とは、魂の共鳴。
だから、その相手の幸せを、心の底から願えるのではないか。
そう意味で、私は魂の共鳴を感じることが出来る仲間が、
いっぱいいることに、
この上ない幸せを感じる。
「ずっと一緒にいたい人たち。」「会いたいと心から思う人たち」
そんな人たちがいっぱいいるから、
永遠の別れである「死」が、かえって怖いのかもしれない。
しかし魂が永遠のものであるとしたら、それも怖いことではなくなるのかもしれない。
愛知・中部空港から札幌・千歳空港へ向かう飛行機の中で、
そんなことをボヤーっとして考えた。
昨日、ちょっと睡眠が短かったせいだろうか。
中部空港を飛び立ってしばらく、左の方に「白山連峰」が見えてきた。
ボオーッとしていたら、北アルプスの上に来ていた。
たぶん穂高連峰のあたりか。
一つ一つの山をじっと凝視するが、どれがどの山なのか判らなくなってしまった。
黒部峡谷のあたりのはずだ。
北海道の旭川行きの特急列車の名前にもなっている?「ライラック」
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