2009年02月08日(日曜日)
2131.ただいま快洗隊志望者、増加
今日は朝、名古屋から新横浜まで新幹線に乗り、
関東の快洗隊5店舗巡りをした。
関東の道路はこのところ驚くほど空いている。
いつもは1時間はかかる新横浜から相模原・上溝店まで
30分足らずで到着しそうだったので、ちょっと寄り道をする。
相模原に隣接した東京都町田市に快洗隊に改造できそうな物件が出たので
それを見に行くことにしたのだ。
なかなかいい物件で、すでに賀来部長がこれを借りるべく交渉を始めている。
しかし改造工事に少し的がかかりそうなので、
賃貸契約がとんとん拍子に進んでも、今年4月下旬のオープンになるだろう。
今年一軒目の新規快洗隊店舗になる可能性もある。
現在、4つの物件について賃貸借交渉が進んでおり、
そのうち名古屋市内の1つの物件はほぼ決定で、
建築条件付のこの物件は建設のための設計がほぼ完成している。
もう一つ名古屋市東部の物件は、
決定すれば、ほんの少しの工事で快洗隊を始められるので、
ひょっとするとこの店舗が今年の新規一号店になる可能性も高い。
それに東京都内に、先の町田市ともう一件。
現在進行中の4件はぜひ今年前半にやりたい。
世界同時金融危機よる不景気が、どのように快洗隊のコンセプトに影響があるのか、
まだ掴みきれていないが、
それでも、一般ユーザーの方々が新車を買うことを控え、
車を長く乗る方向で考えて見えることは間違いなく、
カーアフターマーケットの一端を担う私達が
ユーザーの方々の期待に応えなくてはならない。
だから快洗隊の新店を積極的に開発して行かなくてはならないと考えている。
もう一つ、嬉しいことに快洗隊に入社を希望してくれる人が増えていることだ。
それも長い期間快洗隊でアルバイトをしていてくれた人達が、
快洗隊“を”やりたいと言って来てくれる。
雇用環境が厳しくなってきたからかと言えば、そうでもないのだ。
確信を持って快洗隊“を”やりたいと言ってくれているのだ。
アイ・タック技研は「営業(インストラクター)」と「快洗隊スタッフ」の
二通りの選択肢があるが、
どちらがやりたいのか聞くと、「快洗隊“を”やりたい。」とはっきり言う。
今まで一見華やかで楽そうに見える「営業」を志望する人が多かったのに、
(営業は決して華やかでも楽でもない厳しい仕事である。)
快洗隊“を”やりたいとはっきり言う人が多いのは、ちょっと驚きだ。
聞くと、どうもホームページsensya.comのブログ「快洗隊日記」を見て、
快洗隊の仕事が、
お客様が喜んでくれて
やり甲斐のある仕事と思ってくれているようなのだ。
その通りであって、快洗隊店舗での仕事は直接お客様が喜ぶ顔が見え、
時には、嬉しそうに「ありがとう」と言ってもらえるやり甲斐のある仕事だ。
それに対して、
「営業」は施行店さんがお客様の車を施行するので、
直接的にお客様の喜びと接するわけでないが、
施行店さんがお客様の喜びを作り出し成功することによって、
施行店さんに喜んでいただけるという間接的なやり甲斐になる仕事だ。
営業のやり甲斐も間接的ではあるが、深いものがあり、大きなやり甲斐でもある。
快洗隊の仕事は、直接お客様の喜びと接することが出来るので、
その頻度が多く、やり甲斐も直接的に感じられるので、こちらも楽しい。
だから、どちらが遣り甲斐があるかを比べることはできない。
どちらも十分に楽しく、やり甲斐はある。
しかし、今までは、
営業の方がかっこ良くて、“上”のように思われていたのか、
快洗隊スタッフから営業に配転になると、
「・・・君が営業に上がった。」というような言い方をする者がいたので、
そのたびに「どちらが上とか下とかいうものではない。どちらも同じ価値のある仕事だ。」
とたしなめてきたが、
頻度高く更新される快洗隊ブログで、
快洗隊の仕事の楽しさとやり甲斐の生々しい実体が伝わるにつけ、
快洗隊“を”やりたいと言う人が増えてきたようだ。
これはこれで大変うれしいことであり、
これなら新規店が立ち上がることを考えると、
大切ありがたいことではあるが、
しかし今度は「営業志望」がなかなかいないのだ。
これから営業のインストラクターとしての仕事も増えるので、
「営業」も増員するつもりでいたのに、
困った。
※関東の快洗隊5軒を巡って写真を撮ったのだが、
名古屋に帰ってきて気がついた。
カメラを東京営業所に忘れてきてしまった。だから、今日は一枚の写真もない。
相変わらず、私はおバカである。
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2009年02月08日(日曜日)
2130.知っている。解っている。
人から何かを言われると
「知っている。」「分かっている。」と答える人がいる。
「そんなことは知っているし分かっている。言われるまでもない。」
という意味なのだろう。
他の人がその人に何かの間違いに気が着いて指摘すると、
「分かっている。」と答えられると、
それ以上何も言えなくなる。
しかし気を取り直して、その人の何が間違っているのかを分解して説明すると、
まるで攻撃されたかのように自己防衛のモードに入る。
そうすると、
その人はその間違いに気がつくことはもう不可能になって、
また同じ場面があった場合には、また同じ間違いを繰り返すことになり、
まったく進歩しなかったことになる。
私はそれを「早分かりの人」と呼んで、
まだまだ進化の途中であるのに、
ある日、突然、
「もう何もかも知ってしまった人。」
「すべてを分かってしまった人。」になることによって、
進化がストップしてしまう現象だと思っていた。
まだたっぷりと進化できる能力と環境を持っているのに、
早々と分かったと思い込んでしまうのは、なんと勿体ないことだと思っていた。
しかし、この現象は
ただ「分かってしまうこと」によって引き起こされる単純な現象ではないと思い始めた。
何らかの人の意志を受け入れること自体を拒絶する因子が、
何らかの経験の中で、その人の中に生まれ、存在していて、
その人に何かについての理解を求めた時、
それを拒絶する反応が、
「分かっている。」という言葉で表現されるのかもしれないと気が着いたのだ。
他の人の意志を受け入れ、
それに対して自分の反応を投げかけるのが
いわゆるコミュニケーションというものだろう。
コミュニケーションとは
「他人の意志と自分の意志の連続した交換」とするならば、
自分の意志を相手に受け入れるのと同じ重さで相手の意志を受け入れることが必要だ。
他人の意志を受け入れず、
自分の意志だけを相手に受け入れさせようとするのは
自分を相手に対して押し付けるだけの行為であり、コミュニケーションとは言えない。
相手の言葉に対して
「分かっている。」とか「知っている。」と思ったり、答えるのは、
相手の意志を理解しようとせずに「そんなことは分かっている。」と一蹴することになる。
それは、
「知っている」から受け入れないのではなくて、
あるいは「知っている」と思い込んでいるから受け入れないのではなく、
受け入れないから、「知っている」「分かっている」と答えるのかもしれない。
だとすると、これは「早分かり」ではなくて、
ある意味、自分の心を閉じてしまっているような現象なのかもしれない。
とすると、「すべての人が未完成であり、未完成であるからこそ進化できる。」
つまり
「まだ知らないこと、分かっていないことが誰にでも山ほどあって、
知らないことを知ることが、進化の始まりだ。」
なんてことを言うのは、
まったく意味がないことになる。
たとえば、
他人の意志を受け入れること自体を拒絶する因子を持った人がいるとしたら、
何をどう話せばいいのか、今の私には見当もつかない。
しかし、今の世界そういう人が増えているのかもしれないな、とも思った。
何年か前、
中国の北京からバスで5時間ほど離れた田舎都市「錦州市」で撮った思い出の写真。
この人に「そんな大きな荷物、ロバがちょっとかわいそうではないだろうか。」
なんて言ったら、
「俺のロバに俺が何をしようとお前が知ったことか」と言われるに違いない。
・・・・・
錦州では、人生の中でもっとも惨めな思いをした経験のひとつがあった。
2004年06月16日(水)「 977話 高速バスの悲惨」
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