2009年04月08日(水曜日)
2179.こちら側からあちら側に視点を変える
今日は長野。
キーパーPROSHOP研修会であった。
名古屋から長野まで「特急しなの」で約3時間。
長い時間に色々と考える。
昔は先頭に立って商品を開発したが、
今は実際の作業は増田係長に任せっきりで、
彼の報告を聞いて、すべてを決める。
開発においてアイデアを出し、
実際の過程において口を出すが、
滅多に”手”は出さない。
実際に技術に手を出すことは何年か前にもう無理であることを自分で察しのだ。
それまでは何でも自分でやってみなければ気が済まないし、
そうでなければ嘘だと思ってきたが、
鈍くなった私がやっても上手く行かない技術が、
若い人がやることによって非常にスムーズに出来ることが多くなって、
私は手を出しても何の参考にもならない事を察したのだ。
手を出さなくなってから、
商品の開発、技術の開発を行う時の自分の視点が変わった。
たくさんの要素を同時に考えられるようになってきたのだ。
自分で手を出してやると、
自分の腕に意識が行って、
知らず知らずに技術そのものの面で若い子と張り合っていたり、
技術・商品の開発の本来の目的とは、外れた要素が入り込んだような気がする。
今は、言ってみれば評論家のように、
みんながやっている脇から、ああだ、こうだと口を挟んでいるだけなので、
かえっていろんな見方が出来るようだ。
手を出さず、口とアイデアを出す視点とは悪い面もあるが良い面もある。
見る視点を変えると、
見え方が変わって、違うものに見えるということだ。
似たようなことで
物事を考えるにつけて、いちいち損得を基準にして考える人がいて
同じことについて考えるにも、どうしても埋められない溝がある。
どうも持っている視点が違うようだ。
会社を社会に貢献する方向で考えたほうが、
絶対に会社にとって利益になるし、
経営者の報酬にもそれは返ってくるものだ。
視点の違いなのか。
利益とは、
その会社の、相手(社会)に対しての貢献度に対する評価と報酬なのだから。
言い方を変えると、
会社の利益とは、相手(社会)が相手にとって価値があるかどうかを評価し、
それを原価にプラス付加価値以上の価格で買ってくれるかで決まる。
会社の利益とは、
会社が生み出した付加価値に対して相手が下す評価が
会社にとって利益が出る評価なのかどうかで決まるもの。
これは基本的原則であり、
それに則って高い付加価値を生産すれば利益を得られるに決まっている。
自分の視点を向こう(社会、消費者)に持っていけば、簡単に解る道理だ。
しかし反対に、視点を自分にとって利益になることなのかどうかだけに固定すると、
相手の評価、相手が決めてくれるべき付加価値の量が見えないまま、
自分とっての損得だけで価格を決め、
それが相手にとって価値が満たない価格ならば、買わないという手段で見放される。
そんな時の決まり文句は「損をしてまで売らない。」であり、
自分の視点の在り場所が間違っていることに気がつかないばかりか、
被害者妄想にすら陥る。
経営者の視点が、自分側にあるか、相手側にあるかで、
会社の将来は決まる。
これはきれい事ではなく、事実なのだ。
例えば、
小さいレベルで、小売の店舗で考えると、
お客様側からの視点で店を見ることが出来なければ、
お客様から見て感じのいい店であることはないし、
お客様が欲しい商品も解らない。
たとえ、お客様が買いたいと思う商品があっても、
それがお客様にとっていくらの価値があるかも見えないので、売れる価格を付けられない。
ちょっと言い方を変えると、
その店が経営者にとって気に入った店でも、
お客様が気に入らなければ何の意味もない。
経営者が自分にとって好きな商品でも、
お客様にとって好きなものでなければ売れないのだから、商品として失格である。
たとえお客様が欲しい商品があったとしても
店舗にとって利益が欲しい価格が、お客様にとっての評価がそれを下回っていれば、
売れない。
視点をお客様(社会)に持っていけば、すべて見えるのに、
視点を自分の損得だけに固定していると、何も見えない。
会社の利益の決定権はお客様(社会)の方にあるのだから、
自分の視点を、向こう(お客様・社会)に持っていくしか方法はない。
会社というものは、
本来そういう意味であって、
自分の利益だけを考える視点しか持たない会社など、
存続する可能性が無い。
それは、“会社”という存在から仕事をもらっている個人事業者でも同じだ。
相手の事を思い、相手のためになるしか利益を得る方法はない。
視点を、こちらから、向こうへ、変えさえすれば、すべて解決するのに、
本当は実に簡単なのに。
決して「煩悩としての損得を捨てて、清らかな聖人のように衆人のことを想う。」
なんてご立派なことではない。
ただ単に、自分が見る地点、つまり視点を
自分の側から、向こうの相手側に持っていくだけで、
何も立派なことでもなく、美しいことでも、やさしいことでもない。
ただただ単に、
自分の見る位置を向こう側に持っていくだけのことなのだ。
見方を変えると、見えるものが違ってくる。
見方を変えるとは、見る自分の位置を変えることである。
多分、間違っている例であろうが、
新快洗隊・中川店の大看板の基礎の穴。
穴の前に土井君を立たせると穴は大して大きくない。
穴の中に土井君が入ると、穴が巨大であることが解る。
名古屋で桜を見ると「もう春が来た。」であるが、
長野で桜を見ると「もうすぐ春になる。」である。
長野は本当に気持ちのいい街だ。
大好きである。
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