2011年11月08日(火曜日)
2907.痛く苦しい手術は誰でもいやだが
たとえば、何か病気で手術を受けなければならないようなことがあったら、
多分、手術を受ける前が一番不安なのだろうと思う。
今はどこも痛くないのに、
このままにしておくと大変なことになると言われても、何も実感がなくて、
実際に手術を受ければ大変な痛みと苦痛の日々が
何週間が、何ヶ月も続くことは当然なので、
なにか怪しい“まじない”でもあれば、それで直った人がいると聞くと、
なにやら理屈をつけてそちらに逃げたくなるような気持ちが分からないでもない。
ギリシャの混乱を見て、
こんな風になったのは政治が悪いからだと言い、
ユーロ圏の奴隷になるのはいやだと叫んでも、
国民の労働層の四人に一人の公務員が、
自らの生活の既得権を主張しても、
放漫経営で破綻寸前のギリシャはユーロ圏からの支援が受けられなければ、
実際に債務不履行が起きることは決定的であり、
それが起きたら、生活を権利といくら主張しても、
公務員の給料は不払いとなり、年金も不払いになる。
そうしたら暴動で鬱憤を晴らすのか。
そんな危ない国には国の最も大きな収入源である観光客も近寄らなくなって、
この国は八方ふさがりになってしまうかもしれない。
目先の自分の都合と損得を主張すればするほど、
自ら奈落の底に落ちていくことになる。
外から見れば、誰の目にも明らかな事でも、
その内部から見るとその明白な事実すら見えなくなるのは良くあることだ。
では私たちはどうなのか。
保護される者が、それを既得権とし、
新たなる不利を叫んでも、
保護をしている者が危機に瀕している現状を考えれば、
もはや、保護され続けることを期待するならば、
保護している者の危機を回避せざるを得ないことは客観視すれば明白だろう。
ギリシャのようにすべての危機が白日の下に曝されるまでになっていれば、
外から見れば、保護され続けたい者の叫びが如何に不合理か分かるが、
危機がないように振るわなくては、
本当の危機がやってきてしまうので、
平静を装わざるを得ない場合においては、
その叫びが適正であるように見えるところが本当の怖さなのかもしれない。
しかし経済には“おまじない”はないので、
痛みを伴う手術は致し方ないのだが、
あたかも“おまじない”があるかのように、
誰かが物知り顔で言うのは、その動機がなになのか分からない。
痛みを伴う手術を出来るものならば避けたい心情が、
致命的な病気の進行を許してしまうことが、最も怖いことではないのか。
対外収支の赤字化から始まる魔のスパイラルは、
企業のエネルギーに頼っても、
彼らも窮している事態なのに、背負わせた荷物を降ろしてあげないと、
本当に始まってしまい、
保護する者の力を奪って、保護される者をも殺してしまうことになりかねない。
いまやケインズも、フリードマンも想定しなかった事態が
世界を覆い始めているのではないだろうか。
子供がお父さんの首にぶら下がって、
川を渡る親子があって、
川の流れが急なところに差し掛かった時、
怖くなった子供が、お父さんの首に回した腕に力を入れ、
お父さんの息を止めてしまい、
お父さんも子供も共に川に溺れてしまう様子を、思い浮かべる。
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