谷 好通コラム

2020年04月20日(月曜日)

4.20.地上高5cmを100km/hで走っていた頃

実は、日曜日の昨日、
岐阜県瑞浪の瑞浪レイクウェーサーキットという
レーシングカート用のサーキットに行ってきました。

 

この日は家でゴロゴロしていると決めていたのですが、
じっとしているのが苦手な私がちょっとイライラしていると、
連れ合いが「瑞浪のサーキット、まだ、あるのかなぁ。行ってみようか」と、
珍しく誘ってくれたので乗ったのです。
瑞浪のサーキットは、超が付くぐらい山奥にあって、
だだっ広く、カートが大好きな変わり者がほんの少人数いるだけで、
完璧なまでに観客は一人もいず、
三密とは正反対の環境なので、断る理由もなく、出かけたものです。

 

 

たぶん30年近く前の事ですが
私は家内とガソリンスタンドで起業して、
紆余曲折の上、洗車とコーティングのビジネスに転換しつつあった頃、
そろそろ40歳に近くなっていた頃、
私は、この瑞浪レイクウェーサーキットを、
ヤマハKT100という一番ベーシックなレーシングカートで走っていました。

 

実は、今、事務所で総務を担当して責任者をやっている神谷君は、
学生の頃、私が起業したスタンドでアルバイトをしてくれていた事があります。
大学が国立の夜間だったので、昼、社員のように働いていました。
というと苦学生のように聞こえますが、そんなことはありません。
彼は、レーシングカートに入れ込んでいて、
その入れ込みようは半端ではなく、
レーシングカートの最高峰の全日本シリーズに挑戦していたのです。
レーシングカートは、本物の車を使ったレースより
はるかに安価でレースをすることが出来ましたが、
全日本クラスになると、レースごとにエンジンオーバーホールして、
タイヤも湯水のように新品を使います。
全日本選手権を全戦挑戦するには、百万円単位の費用が要って、
ガソリンスタンドのアルバイトの収入だけでは、とても賄い切れません。
それでも、
今現在スーパーGTで走っている一流ドライバーや。
果てはF1ドライバーですら、最初はレーシングカートで走って、勝って、
上に上がってきた人がほとんどで、そういう意味では、
本気でレーサーを目指すとしたら、正当なルートであったことは事実です。
しかし、本物のレーサーたちはカートを小学生の頃から初めており、
「始めるのが遅かった」と自分で言う平川亮でも中学校から乗っていました。
だから、
大学生でレーシングカートに乗って全日本選手権に出ていた神谷君は、
プロを目指すエリートクラスでないことは間違いないのですが、
大人になってからたまたま乗ったレーシングカートで、
人よりも速かった神谷君は、
すっかり「自分は天才?」と勘違いして、一直線にレーサーを目指したのです。
そして、全日本選手権に挑戦しながら、
株式会社タニのガソリンスタンドでアルバイトをして、賄っていたのですが、
途中で資金に詰まって、ある時、私に相談してきました。
「1レースごと3万円?のスポンサーをして下さい。」と。

 

私と会社にとって初めてのレースのスポンサー話は、
レーシングカートに乗るアルバイトスタッフへのスポンサードだったのです。
ある意味、私のレースへの泥沼の第一歩がこの神谷君であった訳です。
私はこういう無茶が好きだったので、
清水の舞台から飛び降りるつもりで
1レース3万円のスポンサーになりました。

 

一応、レースドライバーのスポンサーになった訳なので、
レーシングカートの全日本選手権とやらを見に行ったのですが、
それが瑞浪レイクウェーサーキットで、
1周1km足らずのミニサーキットですが、
カートの世界では全日本クラスの一流サーキットだったのです。
設備はほとんど何もありませんが、カートの最高の舞台である全日本では、
何十人かの観客がいました。たぶん全員、選手の関係者ばかりです。

 

写真は神谷君と、カートは私のKT100

 

そこでの神谷君はなかなか勝てない選手でしたが、

見ていて、彼から「一度、谷さんも走ってみません。面白いですよ。」と
誘われているうちに、
馬鹿な私は、その気になって、自分のカートを買って、
瑞浪レイクウェーサーキットを走るアホナおっさんになっていたのです。

 

あれから何年か経って、
レーシングカートから四輪のレースカーに乗るようになって、
スポンサードもレーシングカートから、
スーパー耐久を経てスーパーGTになって、
ドライバーも神谷君から、
日本のトップドライバー平川亮とニックキャシディーで、
2017年にはシーズンチャンピオンを取ったりして、
KeePerのブランディングに一役買ってもらっています。

 

そのKeePerのルーツが神谷君のカートだった訳です。

 

しかし、瑞浪レイクウェーは、
30年前と見事に何も変わっていませんでした。進歩もしていません。
いる人間も、みんなレーサー顔をして、30年前とほんとに一緒です。
まるでタイムマシンに乗って30年前に舞い戻ったかのようでした。

 

地上高5cmを100km/hで走っていた頃

 

谷 好通がバカボンだったころ

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    谷 好通

    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
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