2021年11月15日(月曜日)
11.15.平和を実現するのは「お互いを知っていること」
争いとは、それが
些細な争い事であっても、
それが国家間での、あるいは民族間での大きな戦争であっても、
その争いが起きる動機は、必ず、片方のあるいは両方の被害者意識から始まる。
「私たち(の国あるいは民族)が貧しく苦しいのは、
あの国(あるいは民族)が、
私達の得るべき富を不当に横取りしているからだ。
あいつらが悪い。
攻撃して殺してしまえ。そうすれば私達も豊かになれる。」
太古の昔から今の今に至るまで、
よくもワンパターンで繰り返してきたものだ。
政治家であったり支配者たちも広く人民を扇動し支配するには、
「我々は被害者だ!」と煽るのが手っ取り早くて効果的なので、多用してきた。
お互いが自分が被害者だとし、相手を加害者だとして殺し合い、
死体の山を築いてきたのが人類の歴史でもある。
それを根本的に救うのが豊かさなのだろうか。
皆が豊かになって満たされれば、誰も被害者にならず
争いの元もなくなるはず・・だった。
しかし、万人が揃って豊かになることはなく、
富はいつも極端に偏っていて、飢える人もいて、争い事はやはり絶えなかった。
あるいは、富める者同士がより大きな富を奪い合って、
時には雇われた者同士を使って戦った。
しかし、ふりかえって見れば、
争っているのはいつも時の権力者・支配者であり、
しかし、実際に殺し合っているのは支配されている側の人民であった。
かつては、支配者や権力者の情報操作による
「俺たちは被害者だ」の扇動によって、
お互いの人民一人一人が、
加害者をやっつける正義の使者になったつもりで殺し合った。
しかし、今は、
インターネットが世界中に広がって、
事実がどうなのかの情報が溢れかえっていて、
支配者や権力者の情報操作による「俺たちは被害者だ」の扇動は
ほとんど通用しなくなった。
それでも権力者たちは情報を”演出”することによって、
その扇動をやろうとする権力者もいるが、昔のようには行かない。
みんな「知っている。」からだ。
人は知っている。
相手が、違う性の持ち主であろうと、違う肌の色であろうと、
違う民族の者であろうと、違う年代の者であろうと、少数派の人であろうと、
その人の事をよく知れば、
お互いに憎むべき存在である訳がなく、
ましてや殺すべき相手である訳がない事が判る。
むしろほとんどの場合、愛すべき存在であることが判る。
情報が遮断された状態では、
支配者や権力者たちが自分の都合のいいように、
自分たちを被害者と言いくるめ
相手(の国、民族)を、憎むべき、殺すべき存在であると扇動すれば、
人民は、情報がなく知らないので、
相手(の国、民族)を憎むべき、殺すべき存在であると信じ込み殺し合い始める。
しかし、今は「知っているので」
そんなバカげた扇動に乗ることはなく、平和が保たれる。
平和とは、
お互いに”知っている”事からすべてが始まる事のような気がする。
瀬戸内寂聴さんが言っていたように、
人とは元々、
「自分以外の人を幸せにするために産まれてきて生きている」のだから。
明日の午前中にやっと退院です。
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