2025年01月25日(土曜日)
01.25.「我思う、故に我あり」は、我が神であることを否定できない。
今日は土曜日、色んな事を読んで、色んな事を考えました。
テーマは「我思う、故に我あり」。
今日はいつものようにビールを飲みながらではありません。
たぶんものすごく訳のわからないことを書きそうです。
まず、ネットで調べてみました。
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「我思う、故に我あり」
これはデカルトという哲学者が生み出した名言です。
デカルトが哲学者として生涯をかけたのが
「真実の発見」です。
哲学者というものは生涯かけて、
「真実」や「真理」見つけたい生き物です。
デカルトもそれを成し遂げた1人なんです。
では、彼はどうやって「真実」に辿りついたのでしょうか?
「疑いきれないものを見つけ出せばそれって真実じゃね?」
なぜなら「真実」というのは、「普遍的」なものだからです。
つまり全部を疑って、疑えないもの→普遍的→真実だと考えたわけです。
デカルトはそこからあらゆるものを疑い始めます。
これがデカルトのアプローチ方法で、「方法的懐疑」と呼ばれています。
「目の前にあるパソコンは真実?」
→「いや、違う。自分が夢を見ていたら、このパソコンの存在はない」
「1+1=2は真実?」
→「いや、神様が俺たちの脳みそを洗脳している可能性もある。
だとすれば、これが真実のように思えるだけかもしれない。」
こんな感じです。
ほんと、この根性はすごいと思わざるを得ません。
ここまでずべてに疑いをかけると何も信じれなくなりますよね。
しかも、「夢だったら…」とか「神様のせいで…」とか
そんなもの引き合いに出したら、全部疑えちゃいますよね。
デカルトは圧倒的不利な状況に陥ります。
しかし、ここで諦めなかったのが、デカルトのすごいところです。
彼は、あることに気づき逆転勝ちします。
「あれ?今疑いまくってるけど、この疑ってる思考自体は、疑えなくね?」
確かに。
目の前のものは夢の中だと考えると全て疑えてしまう。
でも「今夢の中にいるんじゃないか?」
って疑っている思考自体は疑えなくないですか?
つまり「疑っている自分がいる」ということは疑えない普遍的なもの。
そこからでた名言が
「我思う、故に我あり」です。
ですが、この名言もカントという哲学者によって簡単に論破されてしまいます。
「確かに疑っている思考は疑えないよね。デカルトさんすごいよ
でも疑っている人間の存在自体はまだ疑えちゃうよね。デカルトさん甘いよ」
例えば、
「私は自分がイケメンだと思う」
このとき、「思う」こと自体は真実です。
でもだからって実際にイケメンとは限りませんよね。
ただのナルシストの可能性だって(おおいに)あるわけです。
カントはそこに気づいちゃったのです。
疑っている思考は疑えないけど、
だからって存在も疑えないわけじゃないよね。
ただ、存在そのものは疑えてしまうけど、
その思考自体は疑えないと主張したデカルトの哲学というのは、
当時最高の力を持っていたのも事実です。
「我思う故に我あり」
→デカルト:「疑っている自分の存在は疑えない、これこそ真理!!」
→カント「疑っている思考は真理。でも存在は疑えちゃいますよ。」
→デカルト:「そうやな。疑っている思考自体は真理!!真理発見。」
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考えている自分、
あるいは感じている自分が存在しているという事
つまり、自覚している自分がいるということは疑いようがない事実だ。
自分が存在しているということは自分自身だからこそ証明出来る
証明出来るといっても、自分に対して証明できるということで、
他の者に対しては、自分の存在を証明すべくもない。
自分の存在は、自分にしか証明できない。
逆に、他の者の存在は、
自分の行為に対しての他の者の反応から推測して、
他の者も、自分と同じように存在しているのだろうと想像するしかない。
だから、他の者が、自分に服従したり、自分が他の者に命令をしたり、
他の者から持ち上げられたりすると、
自分が他の者に対して優れているとか、強いとか、偉い者であると勘違いする。
デカルトの言うように「われ思う故に我あり」であるが、
カントの言うように「その存在が何であるのかは自覚する方法がない。」から、
人は多くの場合、
部下を持つような役職に就くと、
その組織の中の「ボス」になったような気になる。
ボスになったような気になって、威張る自分、
ひどい場合は、自分が「神」であり、
他の人々の運命を踏みにじっても、
自分は神なのだから許され、
時には何百万人もの人間を正しいこととして殺すことすらある。
そんなことは、人類の歴史上、何回もあった。
もっと日常的な生活の中でも
人の気持ちを踏みにじるような自分が正しいと思えるようなことはよくある。
それでも、自分以外の人の存在は、自分には証明できないので、
相手がどう思っているかを、自分には理解できないので、
自分の勘違いを疑うことも出来なければ、修正されることもない。
自分が偉い人だと思っていることを、
ひょっとしたら「神」だと思っている事が、修正されることは極めて難しい。
本人が思い込んでいても、もちろん、彼は神でも何でもないが。
本人が思い込んでいることを、他人が、修正することはできない。
他の生き物の場合、
それは彼らが、
私たちにどう見えているかが彼らには全く分かっていないように。
しかし私は、
彼らの姿を美しいと思うし、
この世界に私たちと両立できると信じる。
しかし、彼らは、
私のことをどうとも思っていない。
しかし、私は彼らが本当に美しいと思う。
決して私は、彼らにとっ優位な存在でもなく価値ある存在でもない。一緒だ。
この先は「虫嫌い」の人はご覧にならない方がいいです。
とってもきれいな「カメムシ」が映っています。
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