谷 好通コラム

2024年02月12日(月曜日)

02.12. 14話.1年間の本気のコミュニケーションの結果、起業成功。

刈谷市の1軒のガソリンスタンド(現在のLABO1号店KeePer LABO刈谷店)を譲り受けるのが起業前の大仕事でした。この店舗を譲ってくれる神谷さんは、ご自分が起業する時の地主さんとの話、石油業界に対するご自分の考え、ガソリンスタンドとはかくあるべき論から多岐に渡って、多くの回数のコミュニケーションがありました。神谷さんのこの店舗と商売に対するこだわりは半端ではなく、石油販売業界の中では単に「安売り店(通称ゴンタ)」の1つにくくられてしまうが、その行動の一つ一つにこだわりがあり、その話は総じて面白かった。何度もお話に着き合わせていただく間に気が着いた「この方は、自分の店を任せたい人に譲りたいんだ。」と。

だから、長い話に対して面倒くさくなって「ハイハイその通りです。」なんて、安易に同調するような返事をすると、神谷さんは「谷さんはそんないい加減な人ではないはず。」と許してくれません。神谷さんの話を真剣に聞き、その趣旨をよく理解した上で、自分の考えをキチンと話さないといけない。それが賛同でも反対でもいい、キチンと話すと話が進むのです。逆に話を進めたいが為に表っ面だけの賛同をすると話が堂々巡りになって、かえって話が進まないのです。

そうとなったら、もう腹を据えてとことん話をしていくしかありません。途中で何度となく、実際にお金を出して店舗を買い上げる元売り関連の会社の人も同席して話がされましたが「谷さん、イントロが長すぎるよ。いつまでこんな話をしているのか。」と腹を立てられたこともありましたが、神谷さんとはまともなコミュニケーションを積み重ねていくしか出口はないと覚悟を決めていた私はどう言われようと真剣路線を変えることは無かったのです。

 

そうこうしている内に1年近くが経って、神谷さんとの話も尽きてきたころ、神谷さんを食事に招待して、これでもかという程のご馳走の席を設けたのです。お話はこれで打ち止めという意味で、神谷さんも納得したような表情をして、初めての酒の入ったご馳走の宴席を受け入れ、この話は神谷さんが全面的に私を受け入れる形で終わりました。起業成功の第一歩です。

私は、この経験からなのでしょう。議論が片方の損得で一方的に忖度されることが大嫌いで、お世辞は言われるのも言うのも大嫌い。まともな議論をする人を信用します。

 

私の起業は「一文無しで」始めましたが、決して調子のいいだけの起業ではなく、1年間の真剣なコミュニケーションを全力で続けた上での真面目な起業だったということは、ここで初めて書きました。

 

真面目な話、3月のKeePer LABO新店は3軒がオープンします。

その最後の直営115店目のKeePer LABO宇都宮店(仮称)の看板提案パースです。

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2024年02月11日(日曜日)

02.11.愛知県豊根村の道の駅に行って思った事。

昨日の土曜日は、

9月から中部経済新聞でスタートする50話連載の話を2つ書きました。

明日は、トレーニングの後、午後から店舗プラン会議があります。

世の中三連休の中日の今日は一日中、

仕事を外れた日にすると決めていたので、家族と一緒に遊ぶことにしました。

しかし、私達は遊びが最悪なほど苦手なので、

阿久比のユナイテッドシネマに映画を見に行くか、(+ポップコーン)

どっかの「道の駅」に行って、野菜やお菓子などしょうもない買い物をするか、

そんな程度にしか遊びが出来ないので、

今日は相変わらず道の駅で「豊根村の道の駅グリーンピア宮崎」に行きました。

午前10時半過ぎに出て、高速と山道を走って2時間半、

だから目的の道の駅には午後1時に着いて、

行って見たら、

とても小さな道の駅でしたが、

チョウザメ料理が名物だったので、昼ごはんでそれを3種類も食べて、

小さな売店でいつまでも見ていて、

この道の駅で昼ご飯とお土産で1万5千円ぐらいも使い、

両手にいっぱいの地元の野菜と地元のお菓子を買いました。

そんなしょうもない事をしていたら2時間も経ってしまったので、

今日はその「道の駅」一軒だけで帰る事にしました。

 

帰りは違う道を行こうとNANIのルート選択を「エコ」にしたら、

NAVIがとんでもなく細い山道で峠越えをさせようとしたので、

途中で引き返したりしている内に、

余分に時間がかかり帰り着いたらもう午後5時を過ぎて、今日の終わりです。

本当に残念なのですが、

私達は、遊ぶことがものすごく苦手なのです。

もう何十年も土日を遊んだことがないので、

遊び方を学習していないからダメなんだと思うのですが、

もう70歳を越してしまったので、今から学習する気にもなりません。

かといって、「道の駅」巡りもそろそろマンネリしてきました。

 

雪も雨もなく少し暖かくなって、

KeePer LABOもいよいよ活気づいてきています。

私も本当はLABO巡りをしたいのですが、意識して少なくしています。

色々と考えて、そうしていますが、

遊び下手は克服できず、・・です。

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2024年02月10日(土曜日)

02.10. 13話.起業するまで。恥ずかしながら不良でした。

刈谷市の1軒のガソリンスタンドを譲ってくれる話を実現するまでには、約1年という長い時間と、譲り主との何十回もの話し合い、交渉がありました。譲ってくれるというそのガソリンスタンドは、刈谷市のメインロードである155号線とは途中で分かれた往復一車線ずつの県道に面した店舗で、決して100点満点の店舗ではなく、どちらかというとマイナーな石油元売りマークを付けた古い(築約25年)店舗でした。現金安売り看板で売っていてガソリンの販売数量は水準以上ありました。その店舗の上物全部と営業権(法的なものではなく)と土地の賃借権(借主が代わる)で全部で3,000万円です。高いか安いかは、その店でどれだけ販売するかの自分の自信次第ですが、私は「絶体に買い」だと思ったのです。

しかし、その時の私の持ち金はほぼゼロで、3,000万円は元売りの共同石油と大手商社の合弁会社に買い上げてもらい、その店をこの合弁会社から私の会社が借りて運営しようという私にとっては虫のいい話です。しかし、その当時は元売り間でガソリンスタンドの建設競争が激しく、3,000万円で1軒の店舗が自元売りで獲得出来れば安くていい話だったので買い側は完全に乗り気でした。しかも商売が始まってからの商品買い入れの保証にとしての支払い担保は両親が住む土地家屋を入れさせてもらうという図々しさで、私の起業は文字通り「一文無し」だったのです。本来は起業の元手をこつこつと貯めてからというのが正しいのですが、私の場合は決して優等生ではない、恥ずかしながら調子だけがいい不良のような起業だったのです。

 

似たようなことで、私は21歳で結婚しているのですが、その時、私は妻になるべき相手に「30万円ある。」と言ったのですが、実はその頃、私は酒ばかり飲んでいたので飲み屋さんに30万円のツケがあっただけで貯金なんて全くありませんでした。それでいざ結婚生活に入る時はそのツケを払ってもらってからだったのです。それを「俺は30万円あるとは言ったけど、それが借金とは言わなかったけど貯金とも言わなかった。」などとまるでペテンみたいなことを言ってごまかしたのです。しかし、悪いことはするものではなく、50年経った今でも妻からは、未だにそれを言われます。30万円のことをいまだに言われるのです。本当にいい加減なことはするものではありません。

 

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2024年02月10日(土曜日)

02.10.12話.起業する前提の最後の転職。愚かな勘違いを持つ。

大きな会社では、学歴によるヒエラルキーに限界を感じ、小さな会社に行けば家業であるが故の血族のカーストに諦めて、起業するしかないと思い始めていた時期がありました。ちょうどそんな時、昔からの友達が「刈谷にあるガソリンスタンドを売りたがっている人がいる。」と教えてくれた。その友達は刈谷市から遠い所に住んでいたので、その話を私に譲ってくれたのだが、実際にそのガソリンスタンドで自分の商売として始めるには1年ぐらい先の話をなるので、その1年間を色々な準備をする必要があった為、その小さな会社をとりあえず辞めて、ある程度時間的に自由になる仕事のある会社に変わった。転職して3社目、私が31歳 (1981年) の時です。

その会社はある巨大企業の一次協力会社で、上場していてもおかしくない規模だったが家業としての企業で大規模ではあるが閉じられた会社でした。その会社が子会社として新しくガソリンスタンドを買い取ったのだが、ガソリンスタンドの運営については未経験だったので、私は副所長としてアドバイザー的な立場で1年間の限定的な雇用でした。しかし、その会社の工場の正面には創業者(その時の社長のたぶん祖父)の銅像が立っていて、社員はその前を通り時は必ず礼をしていた。その様子が私には異様に思えた。この時の経験が、自分が起業して会社を造った時のイメージが変に出来た。会社の社長というものは会社において絶対的な権力者であり、神的?な絶対的な存在にもなると。

私の最初の会社、新興会社での創業社長は絶対的な権力者であったが、神になる前に会社が潰れた。しかし二番目の大会社の子会社ではサラリーマン社長であったので社内では絶対的な権力者だったが、少なくとも銅像を造って自分が死んでからも社員に礼をさせるような存在・神ではなかった。二番目の小さな会社では会社も小さいので権力も小さく、小さな存在であり、もちろん神でもなかった。

私は1年限定の3つ目の会社で、創業会社が大きくなると創業者が神的な存在になるのを見て、それ以降3年間ぐらい変な勘違いを持った。その勘違いは起業してから3年間ぐらい続き、大切な存在が傷つくまで自分の愚かな勘違いに気が着かなかった。

 

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2024年02月09日(金曜日)

02.09. №38 KeePer CERUMOが大活躍するしかありません。

去年の今頃は、

スーパーGTにおいて、KeePerをメインにまとった500クラスカーが、

2023年シーズンは無くなる事がはっきりした時期です。

メインサポートを受け入れるチームが、結局、見つからなかったのです。

 

9年間続いた№37のメインスポンサーが失われる事を知ったのは、

2022年のシーズンが終わった10月下旬であって、

そこから新たなメインスポンサー先を探すこと自体、

今考えると、

事実上不可能だったのです。

だから、仕方なく

2023年はサブスポンサーで何台かをサポートさせていただき、

スポンーサード費用全体ではフルの時とほぼ同額になったのだが、

広告効果はフルの時とは比べようもない程低かった。

その事は、ある程度、分かっていたので

2024年シーズンには何とかフルカラーを目指して

2023年の早い時期から色んな所に、いろんな形で働きかけをしていて、

やっと、色んな”縁”と幸運が重なって

2024年シーズンを、

№38 CERUMOをフルスポンサードすることが出来るようになったのです。

 

2022年限りで9年関フルサポートしてきた№37 KeePer TOM’Sを失って、

2023年をサブスポンサードのみで過ごしたあと、

1年のブランクだけで№38 KeePer CERUMOのフルサポートを得られたのは、

それ程のことのように感じられないかもしれないが、

実は、本当に大変なことなのです。

たまたまの偶然と、ラッキーと、色々な方のご協力とご努力を得られて、

初めて実現した結構おおごとなのです。

 

そのCERUMO(セルモ)には、

人気ドライバー立川祐路選手がドライバーを昨シーズン限りで引退し、

チームCERUMOの監督に就任すると同時に、

株式会社セルモ(英: CERUMO Co., Ltd.)の社長にも就任している。

このこともニュースだが、

スーパーGTに出場する№38 KeePer CERUMOには、

従来からの信頼性が高く速いドライバーとして石浦宏明選手と共に、

ホンダのARTAから移籍してきた大湯都史樹選手が、

素晴らしく速いという評判と、若い人たちに圧倒的な人気があって、

№38 KeePer CERUMOの前評判が驚くほど高いそうなのです。

 

これはもう2024年のスーパーGTは、

№38 KeePer CERUMOが大活躍するしかありません。

みんな今から楽しみで、

仕事にも力が入いるというものです。

 

サーキットで配布しようと準備している№38 KeePer CERUMOステッカー。

 

KeePerキャップも№38が決まったので新しくします。

デザインはさらに修正し(フレッシュキーパーをプラス)、発売はもうすぐ。

KeePer TIMES2月号のフライイング掲載。

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    谷 好通

    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
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