谷 好通コラム

2004年08月22日(日曜日)

1000話 闘争本能のはて

1000話ということで、意識し過ぎて、書けなくなってしまっていました。
ということで、長い間、留守をしてスミマセンでした。

 

 

社会生活の中では、人々との関係の中で
思いっきり自分の本能的な欲望を出してしまうことは犯罪行為となる。
あるいは、そこまで極端でなくとも、
自分の欲望のままに従った行動は、他人からの信頼を損ね、
正常な社会生活に支障をきたすことになる。

 

ここで言っている本能とは「闘争本能」のことだ。
種の保存の法則に従い、人も自らをより優秀な強い種として子孫を残す為に、
自分が同じ種の中でもより優れた、より強い個体である事を示し、
種として生き残る為に、動物たちがそうであるように
人も、人との闘争を繰り返してきた。

 

その本能が社会的な生活の中では、征服欲であったり、支配欲となる。
本来的に人は闘いが好きだ。
勝つということが大好きだ。
特に男にはこの傾向が強い。

 

しかし、社会生活とは、あるいは文化的な進化をとげた人間とは、
お互いの協調と、助け合いによってここまで発展して来た。
もちろんそこに競争という闘争本能が加わって、
進歩のスピードに拍車がかかったわけだが、
基本的には、協調と助け合い、つまり理性が人間的な文化の基本である。

 

しかし、闘争本能は本能として、脳の中にしっかりとプログラムされており、
理性における静かな満足ではなかなか治める事が出来ない。
本来的に闘いたいのである。(とりわけ男は)

 

ひょっとしたら、スポーツ全般にそういうことが言えるかもしれない。
スポーツは自分でやるのが一番面白い。
より強く、より早く、より高く
他人に勝つことは最高に面白いし、名誉なことだ。

 

しかし、勝つだけの能力を持つ為には、大変な練習と苦痛も費用も伴う。
だから見る側に回って、
自分の国、自分の郷土、自分の好みなどによって、
選手を自分自身に写しかえ、
その選手を応援することによって代償的に闘うのである。
格闘技を見て燃えるのは、そのような代償行為なのだろう。

 

人は闘う事が本来的に好きで、勝つことはもっと好きなのだ。
これは、良し悪し、あるいは善悪の問題ではなく、
人間の性(さが)とも言えるものではないだろうか。

 

そういう意味において
車のレースは、大変刺激的である。
人間が持っている力を、車という文明の利器で何十倍かに増幅させて、
人間が元々持っている力とは異次元の世界で戦うのだ。
これが刺激的でなくてなんであろう。

 

特に、私のように足に不自由を持っていて、
人より早く走った事がほとんど無く、
あらゆるスポーツにおいて勝てる見込みが少ない人間にとって、
レースカーというある程度の技術があれば人よりも速く走れる道具を持って
裸の状態で、速さでは絶対に勝てない相手に闘いを挑むことが出来ることは、
夢が現実になるようなものである。

 

そういう意味では、速く走ること自体も十分に刺激的である。
普通の車で、普通の道路を走っているのとは全く違う次元で、
限界に挑戦しているのは、
それ自体が大変刺激的で面白い。

 

ということで、
私も、最初はサーキットを一生懸命走っているだけで十分であった。
十分に刺激的でありタイムが上がっただけで、しばらく有頂天になれたものであった。
しかし、一度レースに出てしまったら、
もっと大きな闘う刺激の強さが加わって、
サーキットをタイム相手に走るだけでは満足できなくなってしまったようだ。
“勝ちたい”と思う。
結果的にレースに勝てなくても、
自分の車より遅い車を抜くという瞬間的な“勝ち”でも、それなりに満足する。

 

自分の中にそんなものがあったことを、今度のレースで気が着いた。

 

 

8月8日十勝24時間耐久レースが終わった夜、
多分、感動の塊になっていて、
短いかもしれないが、気持ちのこもった話が書けると思っていた。
だから、その時の話をこのコラムの1000話にしようと思っていたが、
その夜、頭の中には何もなく、ボォーーッとした状態で、
疲れもあったのであろう、ホテルに帰って、あっという間に寝てしまった。

 

それで、次の日に名古屋に帰ってきて、すぐに仕事に戻って、
自分の頭の中のチャンネルを仕事に戻さなければと思いつつ、
レースの事もとにかく早く書かなければ、
応援していてくれた方々に申し訳ないと思い、とりあえず参戦記を書き始めた。

 

最初、十勝の参戦記は3つの話ぐらいで棲むと思っていた。
レースが終わった時、それほどたくさんのことを憶えていないと思えたからだ。
ところが、吉田君からもらった(無断借用?)膨大な写真を使い始めたら、
次から次へと出来事を思い出してきて、
レース前の話まで入れると、とうとう15話にまでなってしまった。
とういうことで、とうとう1000話がここまで来てしまったということです。

 

それほど沢山の事があって、長い長いレースであった。
では、終わった今、燃えるような感動が残ったのかと言うと、そうでもない。
こんな風に言うと、
一緒に闘ってくれた人に叱られるかもしれない。
でも、一つ一つのシーンは強く記憶の中に残っていて、
それが時々、普段の生活の中でフラッシュバックのように蘇ってきて、
その度に、こみ上げてくるものがある。

 

スタートの時、ゴールラインを超えたとたんに前に出てきた、赤いZとか、
右斜め後から突然現れる水色のファルケンポルシェとか、
我が車より、圧倒的に早い同クラスのアルテッツァたち。
それどころか格下であるはずのC-4のインテグラたちが、私を次々と抜いていく姿。
レース前日のナイトセッションで背後の暗闇から襲ってくる無数の閃光。

 

その一つ一つが、負ける自分の情景であり、
そして、それはある時には恐怖すらも伴っていた。

 

私は一台も抜くことはなかった。

 

正確にはあったのかもしれないが、それはスローダウンしている車であって、
レース走行の上で抜いたことにはならない。

 

1本目が1時間。
2本目が途中で降車の30分。
3本目はゴールまでの30分。
合計2時間しか走らなかった。あるいは2時間も走った。
その間私は、レースの中で、一台の車をも抜くことはなかった。

 

今回の車は、ボディ、足回りはNプラスという速い車であるが、
エンジンは完走狙いでノーマルに近い仕様で、
本来的には速い車になっていなかった。
しかし、それでもC-4クラスにはある程度闘える車であったはずだ。
田中選手も、石川選手も、畠中選手も
そのタイムを見ている限り、それなりに闘って、
前の車を抜く場面もあったはずだ。
結果として、37台中27位
(28位と思っていたが、どこかの1台が失格に?)
約2時間のタイムロスの割には、まあまあの成績か。

 

あのトラブルがなかっ“たら”、あのタイムロスがなけ“れば”37台中20位ぐらい。
“たら”“れば”は陳腐であるが、それでもつい考えてしまうのだ。

 

しかし、
私は彼らより2~5秒も遅かった。
練習ならばもうチョッとは走れるが、
3.4kmのコースに37台が走るコース上では、私は全く闘うことが出来なかった。
私は、このレースにおいては完敗であった。

 

耐久レースは、特に24時間レースという超長距離のレースでは、
あくまでも完走する事が前提であり、チームプレーなので、
私ひとりが“勝った、負けた”という問題ではないと言うことはよく解かっている。
だから、ゴール直前の3本目は、極端に壊さないドライブに徹した。

 

しかし、一番強く残っている自分の走行中の記憶の中で、
私は抜かれ続けたし、
私は闘うことが出来なかったのだ。

 

闘うだけの力がなかった。

 

だから、みんなの力が合わせて勝ち得た“完走”は、
胸を張るべきことだと思うが、
しかし、
闘うことのなかった私は、
不完全燃焼のままで、
透き通ったような感動を持てなかった。
一生懸命闘った人達に対して、
私がこんなことを言うのは申し訳ないと思う。本当にそう思う。
でも、正直な気持ちである。

 

 

しかし、レースもゲームである。
所詮、閉じられた空間の中で、車で競争するだけのゲームだ。
勝ったの負けたのなんて、自分とチームの中の満足感であって、
それで、何か得があるのかといえば、ほとんど何もない。
ましてや、その人の人生に大きな意味があるのかと言えば、考え方であろうが、
ほとんど無いといってもいいだろう。

 

“勝ちたい”から、勝とうとするだけなのだろう。
勝つ事が快感であり、勝つことによって満足が得られるから、
勝とうとするだけだ。

 

 

だから、そういう意味においては、
闘いたいのならば、闘える相手のいるところに行って闘えばいいわけだし、
何も闘うことすら出来ないところへ行って、
無理して闘おうとすることはない。

 

しかし、なかなか勝てない相手がいるところで勝つことの方が、
つまり、より高い技術を持ち、力を持った相手に勝った方が
より刺激的であり、
満足度も大きい。
そして、レースの場合、勝てる道具とは金を出すだけでは手に入りにくく
いい道具を作り出す他人の力を有効に借りる事が大切なこととなってくる。
難しいものなのだ。

 

色々考える。

 

レースに出ることによって、得られる宣伝効果は別にしても、
自らレースに出ることによって、
自分の中にある大きな闘争本能を満足させることに、意味があるのだろうか。

 

それはあると思う。

 

私はレースに出ると、本当に元気が出る。
頭の中に鬱積したものが見事に霧散して、元気百倍になる。
仕事のパワーの源は、闘争本能そのものの中にあるわけではない。
商売も、会社も、店舗も、仕事も、闘いの一種であることも違いないが
闘争本能そのものは、この現代社会の中ではむしろコントロールされるべきであって
その中にどっぷりと浸かり本能の赴くままに“仕事”で闘っても、うまく行かない。
仕事とは、ある意味では敗者を作るものではなくて、
より多くの勝者、つまりより多くの人が利益を得るものであるのだから
つまり、
自分が勝つことによって、つまり利益を得ることによって、
負ける者、つまり不利益を被る者を作ることではなくて、
消費者も含めてより多くの人も利益を得る事でなければ、成功とは言えない。
そうでなければ続かないし、より発展することはない。

 

商売とは、そういう意味では勝ってはいけないのだ。
もちろん負けることでもない。

 

レースとは、
私にとって、闘争心を養うものであると同時に、
発散させるものでもあるのだろう。

 

それをまとめて、レースのことを私は“元気の素”と呼んでいるのだ。

 

だから、レースはやめない。
レースそのものには多分何の得もないが、
自分の元気で、もっともっと大きな得を作り出していく。

 

その為には、闘えるレースに出よう。
自分の力では、とうてい戦えないような全日本レベルのレースに
無理に出ても、
その目的は達せられない。
自分の力でも、勝てないまでも、闘えるレースに出て行きたいと思う。

 

私はアマチュアであり、バリバリのおっさんなのだから。
しかし、闘争本能、闘争心は人一倍あるようなので、
アマチュアがアマチュアとして闘うことの出来るレースに出て行きたいと思う。

 

私だって、
いくら身の程知らずの私だって、
スーパー耐久レースが、自分には不相応だってことぐらい十分に分かった。
打ちのめされた気分だ。
しかし、だからといって、レースそのものをやめようとは思わない。

 

私はまだ闘いたい。
闘って、出来得るものならば、勝ちたい。

 

何に対してもそうだ。

 

私は勝ちたい。

 

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    谷 好通

    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
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