2016年01月28日(木曜日)
1.28.たとえば、自分は許せるか、憎むか。
テロリスト集団であるISが、
フランスなどの連続無差別テロで膨大な数の人間を殺しました。
殺された人々は、ISとは無縁の人で、
殺される理由などまったくなく、
殺したIS側の、身勝手な被害妄想の言い分で起こした理不尽な死でした。
そんな身勝手な殺人で、
自分の妻を殺された夫が、
「ISは、世界中の人が、自分たちを憎むことを目的にして、
何百人もの罪のない人を残酷に殺した。
憎まれることによって、自分たちの存在を確かめようとしている。
私達が自分達を憎むことを期待している。
しかし、残念ながら、
私は、君たちを憎まない。
「許す。」
君たちが最も恐れている、
許されることを、君たちにする。
それが、彼らにとって一番困ることであり、恐れていることのはずだ。」
この話は、世界中に流れ、感動を呼び起こしたが、
私もこの境地を、何となく理解できたつもりでいたが、やはりわかりません。
身勝手な言い分で、
自分が大切にしていたものを壊されることを、
「許し」で、応えることは出来ません。
外から見ていれば、そういう「許し」もあるのかなあと想像はしましたが、
たとえば、
それが別のことであっても、
張本人の立場になったら、
やはり私は許せないでいると思います。
でも、考え続けるだけの価値があるだろうことは予感します。