2015年06月26日(金曜日)
6.26.ずっと目の前にあるから気が付かないそのものの価値。
北海道の道東、釧路から2時間ほど東に走ったところに、
霧多布湿原という大きな自然があります。
大府市と同じくらいの面積がある大きな湿原です。
何十年か前に作家の畑正憲さんが
一家三人で1年間住んだ「無人島記」の嶮暮帰島を目の前に見る湿原です。
その霧多布湿原に隣接して「ペンション ポーチ」という宿があって、
私は20年前に初めて行って、この場所が非常に気に入りました。
このポーチのオーナーであり、自らを宿屋の亭主と称する瓜田さんは、
元々、この霧多布湿原が属する浜中町の琵琶瀬という海で、
“漁師”を営んでいたのだそうです。
昆布(コンブ)漁が盛んな所なので、
きっと良い収入だったのではないでしょうか。(私の想像)
そんな頃の地元に人にとっての霧多布湿原は、
いつもの生活の一部であって、
貴重な自然どころか、生活のゴミ捨て場ですらあったそうです。
地元の人にすれば、
湿原とは、
生まれた時からそこにあるけど、
濃作物が取れる訳でもなく、
狩りも漁も出来る訳でもなく、
そこから何か得られるものがある訳でもなく、
年中、水で湿っているので、そこで遊べるわけでもなく、
使えるとすれば、
生活の生ごみを捨てれば、
自然にゆっくり戻っていくので「自然のゴミ捨て場」だったのでしょうか。
それくらいしか使い道がなかったのが地元の人にとっての湿原でした。
ペンションポーチの瓜田オーナーもその一人だったと、
ご自分でおっしゃっていました。
ところがある日、霧多布湿原の自然に魅せられた東京の人が、
湿原の全貌を見渡せる高台にある「展望台」の敷地に、
「てんぼうだい」という名の喫茶店を造って開店しました。
そして、
瓜田さんたちが、
もの珍しさで喫茶店によく行った時に、
喫茶店「てんぼうだい」のご主人や、学校の先生や、都会から来た人に、
霧多布湿原の自然や植物、動物についていっぱい聞かれて、
それを説明しているうちに、面白くて
でも、
その自然や生き物が、いかに貴重で、
いかに大切なものであるのかを、気付いてきて、
この自然を子孫の代までも残して行かなくてはならないと、思い始めました。
それで、
「霧多布湿原にほれた会」という会を作ったそうです。
そして次第に、
この自然を残すことに「使命」を感じるようになって、
約30年前、
一大決心で漁師をやめ、(私が独立した1年後です。)
ビジターセンター機能を持ったペンション、ポーチを造りました。
それから「ファンクラブ」を造り、
のちに「認定NPOナショナルトラスト霧多布湿原」として発展し、
瓜田さんはペンションポーチのオーナーであると共に、
NPOの副理事長として立派に活動していらっしゃいます。
霧多布湿原には、
約300種類もの野の花が季節ごとに咲き、
タンチョウ鶴や200種類以上の野鳥や動物が生息する真の自然の宝庫です。
そんな素晴らしい自然も、
生まれた時から目の前にあった人には、
生活としての恩恵はそこから直接は何もなく、
むしろ自然のゴミ捨て場として使っていたくらいでした。
しかし、ひょんな拍子に
霧多布湿原の自然がいかに貴重であるか、
素晴らしいものであるかを、あらためて気が付いたのです。
あとから気付いたからこそ、
気付く前の行為を改め、
その価値の高さと希少さをより大きく感じて、
霧多布湿原を守ることに使命を感じ、
その素晴らしさを多くの人に伝えることに、強く使命を感じたのでしょう。
瓜田さんがエッセイを書いた「全国家庭クラブ」を読んで、
そんなことを感じることが出来ました。
ダイヤモンドとか金など、
どんなに値段の高いものでも、
それに価値を感じる人と、感じない人がいます。
それを換金した”お金”が、ほぼどんな物にも代えられるという意味では、
ダイヤとか金にはすべからく価値があるとも言えますが、
それそのものには、私はまったく価値を感じません。
その反対に、ダイヤモンドや金そのものに高い価値を感じ、
それらを使った宝飾品を身に着けることが大好きな人も多くいます。
それと同じように、
そのままの豊かな自然と生き物の、
その存在そのものに価値を感じる人もいます。
それが自らに何らかの利益をもたらさないものであっても、
その存在が、そこにあること自体に価値を感じる者もいます。
そんな自然を見たり、一緒の空間に身を置いたりすれば最高でしょうが、
そういうことがなくても、
それが存在していること自体の価値が”有る”だけで満足する人もいます。
人それぞれです。
何が良くて何が悪いということではありません。
しかし、すでにそれが自分の目の前にあって、
生活の中で当たり前のものになっていると、
それが宝飾品であろうと、
人から見ればものすごく価値の高いものであっても、
あるいはそれが貴重な自然であっても、
あるいは人間関係であるとか、
その価値に気が付かないまま、
踏みにじってしまっていることは、
その行為の意味に気が付かないまま、きっとよくあることです。
自分の周りにも、自分の気が付かないまま、いっぱいあるのでしょう。
きっと、気が付いていないだけです。
いろいろ考えさせられます。