谷 好通コラム

2015年01月23日(金曜日)

01.23.私のターニングポイント「無謀」「何とかなるさ」「仕方なく」

私が独立して事業を始めたのは1985年9月です。

 

愛知県刈谷市山池町に、
築約20年、150坪、キグナスマークのガソリンスタンドがありました。
その店舗の経営者が、
不動産の鑑定士の免許を取ったのを機会に、
ガソリンスタンドの商売をやめようとしていたのを知りました。
そのスタンドの土地は、
借り物であり、別に地主さんがいたので
その経営者が建てた建物設備とそのスタンドの商売を、
売りたかったのです。

 

それを、私は、
その頃私がお世話になっていた共同石油さんの子会社にそっくり買ってもらって、
そのまま私に貸していただく画策をしました。
しかしその経営者との交渉は難航して、
障害もいっぱいありましたが、
1年以上に渡って何度となく先方にお会いし、何十時間と交渉して、
何とか、話がまとまって、
刈谷市山池町のガソリンスタンドを借りて運営出来るようになりました。
ここまでほとんどお金は使っていません。
ただ、ものすごく長い時間を使って、辛抱強く交渉をした覚えはあります。

 

暑い夏に時期に始まった交渉は、
秋になって年を越し、春、夏と続き、ようやく話が決着して
1985年9月、株式会社タニ、高津波サービスステーションが開店しました。
所在地の名前で言えば「山池SS」のはずですが、
山池ではのんびりした感じがして
それよりも、道路を挟んで向こう側の地名が「高津波町」だったので、
何となく威勢の良さそうに思えた「高津波」を店名にしたのです。

 

でも、その直前に、
共同石油子会社の方から「担保を・・」と言われ、困惑したことを憶えています。
ガソリンスタンドで売る石油製品を仕入れるには、
石油製品を仕入れてから支払の間の債務に対して、
支払いを保証する担保が必要なのです。
当時は月末締めの翌15日払いでしたので、
45日分の仕入れに見合う金額の土地あるいは現金での担保が必要だったのです。

 

私は元々土地も持っていませんでしたし、
もらっていた給料はかなりの部分を飲んでしまうタイプで貯金もありませんでした。
だから、スタンドで販売したガソリンの売り上げを、
支払うまでのタイムラグの分だけ現金で担保に当てました。
それでも足りないので親の家の土地を担保に入れさせてもらい、
何とかしのぎました。
しかし、この一軒のガソリンスタンドの商売だけで、
親の家まで当てにしなければならないようでは、
二軒目、三軒目を建てての商売の目途など全く立ちません。
独立したからには店舗を増やして、
会社を大きくしたい願いは「こりゃ無理だなぁ」と思った覚えがあります。

 

でも、一軒目のガソリンスタンドの商売がまあまあうまく軌道に乗ったので、
やっぱり二軒目が欲しくなったのは、
独立してからまだ二年目が終わる頃でした。
こう自分で書いて「早過ぎるよ」と自分でも思います。

 

土地を探すのが日課になって、
それがまた楽しかった記憶があります。
私は昔から物件探しが好きでした。

 

二軒目も、一軒目と同じくガソリンスタンドの中古物件が良かったのですが、
一軒目の近くでと考えた場合、近くに見つかることはあり得ず、
土地を探して新築するしかありません。
土地を探すのでもずいぶん大変です。
ガソリンスタンドは「立地」が非常に重要ですが、
良い場所は値段も高くなかなか手が出ません。
それで結局、見つかったのは一軒目から3kmほど離れた土地で、
車の通行量も決して多くなく、よくあんな土地を買ったものだと、今では思います。
132坪の土地を、坪50万円、6千6百万で買いました。
今だったら絶対買いません。無謀でした。
ほぼすべて借金です。

 

もう一つ、良くない土地であることが響いたのでしょうか、
「揮発油なんとか法」の総量規制で、
日本国中のガソリンスタンドの店舗総数が規制されていたので、
せっかく無理して買ったその土地にガソリンスタンドの設備を造っても、
それを、ガソリンの販売ができる「給油取扱所」にすることが出来ず、
灯油と軽油しか販売できない「一般取扱所」にするしかなかったのです。

 

でも、その「揮発油なんとか法」が一年後には撤廃されることが判っていたので、
「何とかなるさ。」で、ガソリンスタンドを造ってしまいました。
それから一年間、
ガソリンを売っていないガソリンスタンドを運営しました。
軽油と灯油だけを売っても仕方がないので、その両方とも売りません。
売ろうとしたのは「洗車」と「タイヤ」、
主に「洗車」です。
ガソリンを売れなかったので、
ガソリンスタンドの「油外収益」と呼ばれる部分だけを売るつもりでした。

 

しかし、普通に、普通の洗車を売っても、売れないので、
何か「特別な洗車」はないかと必死に考えていた所に、
特別な「洗車・コーティング」の技術とビジネスを教える所が、
横浜にあると業界新聞に載っていました。
私はそれに飛びついて、横浜に通うことにしたのです。
今で言う「”磨き”とコーティング」の草分けです。
ここで、磨きや色々な技術と、道具やケミカルを学習しました。
理論も身に着けました。

 

そして、二軒目の店舗を、
「クリーンベースWith」と言う名前でオープンしました。
オープン当初は、洗車とカーコーティングしかない、
しかも、ガソリンを売っていないガソリンスタンドみたいな店だったのです。

 

それから、いろんなことがあったのですが、
洗車とカーコーティングだけの運営は苦しく、
何度か倒産の危機がありながらも、
1年後にガソリンも取り扱うようになったら、
特別なコーティング・洗車の技術に、
ガソリンスタンドの圧倒的な客数が加わり、
大繁盛の店舗になりました。

 

それから、
大きな労力を要するわりには
一般のお客様の感性とはかけ離れている「磨き」の技術に疑問を持って、
「磨き」を使わないカーコーティングの独自の
独自の「キーパー」の理論と技術を作り上げていったのです。
このころは、今では考えられないほど本を読み勉強をしました。

 

ここまで来ると、もうガソリンスタンドは影が薄くなって、
洗車とカーコーティングのビジネスにのめり込んでいきました。

 

私がガソリンスタンドで独立してから、
カーコーティングのビジネスに転換していったいきさつです。

 

私の大きなターニングポイントは、
二軒目のガソリンスタンドを無理して造ったのに、
なんとかいう法律で、ガソリンを扱う「給油取扱所」が出来なくて、
仕方なく「洗車」をメインとした、
ガソリンを売っていないガソリンスタンドみたいな店を、
1年間運営しなければならなかったところです。

 

私のターニングポイントは、
自ら作り出したものではなく、
『無謀』にもあまり良くない土地を買ってしまい、
『なんとかなるさ』で造ったガソリンを売れないガソリンスタンドで、
『仕方なく』はじめた洗車とカーコーティングだったのです。

 

 

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    代表取締役会長兼CEO

    谷 好通

    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
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