2013年01月04日(金曜日)
1.4.「家族のことを思ったら、そうせざるを得なかった」?
私が中国に行かなくなってからもう数年も経ちます。
今でも年に一二度は、行かねばならない用件があって行く事はあっても、
こちらから積極的に行こうとはしていません。
私は中国に合計70回も行きましたが、
その結果として、中国をあきらめた原因はいくつもあります。
その一つには、中国の人は、
ビジネスとはあくまでも「金儲け」であり、
誰かの役に立つことを行って地道に「お金を稼ぐ」こと、とは思っていない。
そう感じて、私とこの会社の価値観と相容れないと思ったことです。
ビジネスを、展望を持って考えず、
即物的に目先の損得で考え、選択する傾向があるので、
長・中期的に成長させ得るビジネスの進行が成り立ちません。
たとえば、
ある会社の依頼で、
中国の大会社の現場スタッフ10人に、
洗車コーティングの技術を、一週間かけて訓練しました。
スタッフ全員のそれぞれがそれなりに技術を身に付けた上で、帰国し、
一ヶ月位経ってから、みんなどのように作業をしているのかを視察に行くと、
トレーニングを受けたスタッフはたった2人しか残っていません。
あとの8人は、その会社を辞めて、他の洗車屋さんで別々に働いていました。
辞めていったスタッフの一人が言うことには、
「私はあなたのおかげで技術を身に着けた。
だから私の価値が上がったので、
今の給料より高い給料を払う会社があった。
しかも洗車をする人間としてではなく、
洗車を教える人間として給料だけでなく身分も上がります。
私は、あなたとトレーニングを受けさせてくれた会社にありがたいと思うけど、
私を育ててくれた父母や私が支えている家族の生活のことを思うと、
給料が上がる会社に変わることを選ばざるを得なかったのです。」
彼にとってこの論理に隙はない。
彼は本気でそう思い、そうしたことを正しいと思っている。
ただ、
家族の為に、
家族以外の人(会社)に、損(教育費が無駄)をさせる事になる。
でも、
この家族はそれを喜ぶか。たぶん喜ぶだろう。
家族は自分たちの生活の得(とく)を、
自分達以外の人の損(そん)よりも優先させたことを、
家族想いだとして、むしろたたえるかもしれない。
しかし、少なくとも、
私や、前の会社は彼を今後は信用しない。
しかし、彼にとってそんな事はどうでもいい事なのだろう。
何せ人間が半端ではなく多い国だから。たぶん二度と会うことはないから。
それに、
たった一週間で憶えただけの技術は、まだ彼の身についていないし、
知識だってほとんど憶えていないだろう。
ましてや教え方なんて習っていないのだから分かる訳がない。
それで新しい洗車屋で、技術を教える役を務めても続くかどうか疑問だ。
しかし、
そんなことは、やって見なければ分からないし、
自分が習った技術とは間違ったことを教えても、誰も判りはしない。
もちろん、
上っ面を憶えただでまったく習熟もされていない
適当でいい加減な技術なんて、じきにバレます。
一時的にであっても、
せっかくきちんとした技術を憶えたのに勿体ないことです。
こういう人を見て、
私達がこの人たちに何をいくら教えても、
教えたものが全部、彼らの目先の損得勘定の中に吸い込まれてしまい、
ビジネスの根幹でもあるギブ アンド テイクが、
どこまで行っても成り立たないと思ったのです。
この国はひょっとしたら
こういう価値観で社会が成り立っているのではないのでしょうか。
私には論理的には思えない「目先の損得勘定の論理」は、
こんなことが度重なるたびに、嫌悪感を覚え、
私は、この国と、少なくとも
積極的にはもう関わりを持ちたくないと思わせたのでした。
しかし、中国での苦い経験はそれが露骨になっているだけであって、
日本においても同じように身勝手な目先の損得勘定は存在しています。
中国名物の「行列の横割り込み」は、
日本でも見るようになりました。
行列に並んでいる自分の“前に”、
あとから来た自分の家族を入れる手口は、
中国独特のものと思っていましたが、最近は日本でもちょくちょく目にします。
こういう人は「家族の為に・・・」と言います。
家族のため・・と言えば、
どんなずるいことをしても許されるとするのは、
それは自分のエゴを正当化するための詭弁なのではないでしょうか。
目先の些細な身勝手な得は、
往々にして目に見えない大きな損失につながっており、
目先の些細な損を気にせず、相手を思えば、
小さな徳として身について、
いつか大きな得があるのかもしれません。ないかもしれません。
どちらでもいいことです。