2012年06月19日(火曜日)
雲の上の人
私は雲を上から見るのが好きだ。
上空から見る雲は、まぶしい太陽の光に照らされて、あくまでも白く、
下界の営みやざわめきを一切忘れさせてくれる。
大昔の人は、山に登り雲海を見て、きっと、
その光景に「神」を感じたのだろう。
神が存在する天空の世界。
しかし私は飛行機に乗って雲の上を飛んでいるだけなので、
ちょいの間だけいて
「ウワッ、雲がキレイだ。空が濃い、深い。」なんて思うだけで、
どこまで行っても、下界の一人の人間に過ぎない。
それがいい。
「雲の上の人」とは、”神”的な存在をいうのだろうか。
しかし雲の上からは、
下界の我々輩の存在を感じることはまったくない。
我々のような下界のものどもが、
下界で働き、喜び、生き、苦しむ様子は、見えない。
見えるのはいつもキレイな、光る雲だけだ。
雲の上の人とは、
たとえば高級官僚的な人とか、
たとえばカリスマ的な近寄りがたい人を言うが、
始末が悪いのは、自分で自分を雲の上の人にしてしまっている人。
雲の上の人は、いつも雲の上にいて、
下界から上がってくる情報を見たり聞いたりして、判断し、
下界に「お達し」、いわゆる「神の声」を下す存在だ。
雲の上の人、つまり神みたいな人には、
民たちの生活も喜びも苦しみも、直接には見えていない。
神が知っているのは、
ほとんどが下界に派遣した手下から上げられた情報であり、
たまに神も下界に降りていくこともあるが、
それはあくまでも視察であり、
地面に降りることなく空(くう)を舞い、上から見る。
当然、決して下界の中で民と共に暮らすわけでも、働くわけでもない。
だから民たちが喜んでいる様子、苦しむ様子は見えるが、
それが見えているだけで、
その喜びや、苦しみを共に感じることはない。
雲の上の人は、手下どもを通じてすべてを成し、
直接手を下すことはない。
大局を論じ、高所からの判断で、
神の声を下し、手下を通じて民を動かし、罰し、褒める。
罰し、褒めることで、下界の者たちをあやつる。
下界の者は、雲の上の人のお達し、つまり神の声に逆らうことは出来ない。
逆らうこと自体が最も重い罪であり、重い罰が下されるからだ。
しかし雲の上の人には、
下界の人の苦しみも喜びも実感できないばかりか、
困ったことも、良いことも、困ったことを解決する方法も何も見えない。
ただ自分のためになるかどうかだけの価値感で、
民たちを罰したり、褒めたり、動かすだけ。
だから、下界の民たちを幸せにする事は決してない。
雲の上の人に下界の民たちを幸せにする能力もない。
下界の民たちを幸せにする方法も知らなければ、
幸せにする意味も知らないし、幸せにしようも思わない。
だいいち、雲の上にいると、
雲が視界をさえぎっていて、下界が見えないのだから、気にする事もない。
雲の上は居心地は良いし、景色も良い。
しかし、下界の民たちにとっては、
雲の上の人は、
自分たちの幸せとはまったく関係なく「神を声」を下し、
自分たちの都合とは関係なく罰し、褒めるだけで、
自分たちの幸せにとっては、無意味な存在であることに、
いつか、みんなが、気がつく時がある。
すると、
神は、雲の上に、ほったらかしにされ、どうでもいい存在になり、
そのうち、下界に引きずり降ろされる。
すると、
実は、雲の上の人とは、神でもなんでもなく、
たまたま雲の上にいただけの「人」で、
下界の民たちと寸分の違いもなく、ただの人であったことに
みんなが気がつき、驚く。
何よりも、雲の上にいた人そのものが、自分がただの人であったことに驚く。
すべての真実は、私たちの生活の場である下界にある。
すべての真実は、現場にある。
雲の上の人とは、たまたま雲の上に上がってしまっただけで、
自分が神のごとく錯覚し、
すべてを手下にやらせて雲の上に安住し、
下界や現場を見なくなったら、もう、存在の意味を失い、
みんなにとって邪魔な存在でしかなくなる。
台風が接近する中、
中部空港から開発の関係スタッフと共に札幌千歳に飛んでいる。
雲の上からの写真を撮ろうとカメラを用意するが、
雲がとても厚く、12,000mの上空に上がりきっても、まだ雲の中だ、
私は断じて雲の上の人ではないので、
飛行機に乗った時くらい、
雲の上から美しく白い雲を上空から見たかったのに。残念。
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と、ここから夜、札幌のホテルの中で
それどころの騒ぎではなく、
今日の遅い便で羽田に向かう予定だったのに、
台風がまともに東京に向かって進み、
乗るはずだった飛行機が欠航になってしまった。
だから、まだ札幌にいる。
で、札幌のホテルの中からこのブログをアップする事になるとは
思いもよらなかった。
それどころではないのです。