2012年04月03日(火曜日)
雨が降っても、濡れていない幸せ
雨が降ると幸せだとしみじみと思うことがある。
大昔も大昔、
“原始”の人類は、
雨が降ったら、ほとんど濡れたままだったのだろう。
草原にいた原始人、密林の中にいた原始人、
山や海に住んでいた原始人たちも、彼らが活動している時間に、
雨を避けられる洞穴などがある場合は少なかっただろう。
雨が降るたびに、
大きな木の下で身を寄せ合って濡れるがままになって耐えていたか、
雨を無視して歩き続け狩を続けたか、どうだったのだろう。
いずれにしても雨は、特に寒い時期にはつらいものであったに違いない。
冷たい雨に体温を奪われながら空腹にも耐え、
じっと雨がやむのを待ったのではないか。
現代の私たちは本当に幸せだ。
雨をしのぐ「家」があり、「店」があり、
移動している間には「車」があり、「電車」がある。
車で高速道路を走っていて
乗っている私たちはまったく濡れることもなく、乾いた服を着て、
エアコンが効いて、快適に雨の中を走る。
原始の人からすれば、天国のような快適さだ。
家で寝ている時、
外では冷たい雨が降っているのに、
私は、布団の中でヌクヌクと心地よい眠りを楽しむことが出来る。
猫はコタツの中で眠り、熱帯魚も暖められた水槽の中でじっと眠って、
私の周りにいる生き物すべてが外の寒さも雨も忘れて、じっと眠っている。
あー、ここは天国なのか。
「俺は原始の時代に生まれなくて本当に良かった。」なんてしみじみと思うのだ。
雨が降っても、濡れていない幸せ。
戦争の悲惨な話を聞き、写真を見、
平和である今を本当に幸せだと思う。
だから、絶対に戦争は起こしたくないと思う。
特に、映画を見ていて画面の中に自分を置いて見入ってしまっている時に、
映画館のシートに深く座り、
ポップコーンを口にほおばっている自分の平和とのギャップに、
ふと、気がついた時、妙な罪悪感と、今の平和の幸せをつくづく感じる。
それは、大災害にあわれた被災者のニュースを見て、
被災者を本当にお気の毒の思うと同時に
今の自分が何事もなく平和に暮らしていることが、
申し訳ないと感じる気持ち同時に、
今与えられている平常が本当にありがたいと思うのと似ているのかもしれない。
しかし、
今ある平和な暮らしは、その中に居続けると、
つい、そのありがたみと、幸せに気がつかなくなってしまうものだ。
今の生活が当たり前になってしまい、
そこにある幸せを見失ってしまうのだろう。
三食をまともに食べられている幸せを、いつか忘れて、
もっとうまいものを食べたいと不満を持ったりするのは幸せではない。
家族がいる幸せを、いつか忘れて、
自分の思うがままにならない事があると、それを不満に思うのは幸せではない。
暖かく眠られる寝床があるのに、その幸せをいつか忘れて
つまらぬ不満に心をたぎらせて、いつまでも眠れないのは幸せではない。
五体満足の体を持ちながら、その幸せを忘れて、
もっと美しくなりたいと、自らの素を隠すように飾り立てるのは幸せではない。
一生懸命働いてくれる旦那様を持ちながら、
もっといい生活をしたいと旦那様を責めるのは、幸せではない。
何も困らないほどの物を持っているのに、その幸せを忘れて、
もっと欲しい物が買えないと、欲求不満に陥っているのは幸せではない。
今ある幸せを忘れて、すべからくに欲求不満を持つのは、
どこまで行っても、何を手に入れても、どのようになっても、
必ず新たな欲求不満が生まれてくるだけなので、どこまでも幸せではない。
常に欲求不満を持っている事は、
成長意欲とか、高く志を持つこととは、およそ関係のない事で、
ただ、幸せを見失っているだけなのでないだろうか。
本当に幸せになりたいのならば、
今ある幸せを、幸せと感じる事が出来るようになることがまず前提なのだろう。
雨が降っても、家があって、屋根があって、濡れていない幸せを、
今、しみじみと感じたい。