2011年10月18日(火曜日)
2893.秋晴れ、秋空、秋風、黄昏
季節で言えば「秋」が一番好きです。
私は暑がりだから、秋になれば暑さから開放されるから、だけではありません。
秋は黄昏が似合う季節です。
喧騒の夏が冷えて、凍える冬に向かう途中の、秋はほっと一息のような季節です。
夏の山は、
木が地面から吸った栄養を、太陽の光と二酸化炭素で、
葉緑素が自らの身体に変える作業、光合成が、
むんむんするような勢いで活動されていて、
森は光合成で排出された大量の酸素と、呼吸で排出される二酸化炭素が混じり、
空気の80%を占める窒素が薄くなっているような気がするのです。
頭の中で考えればそういうことになりますが、
そんなことは微々たることなのでしょう。
ましてや微小に窒素が薄くなっても体には何の影響もありません。
それよりも普通の空気よりも酸素がいっぱいあって、気持ちがいいはずです。
なのに、
夏の山を妙に息苦しく感じることがあるのは、
多分、セミの声のせいでしょう。
何十年も地面の中で暮らし、
繁殖行為のためだけにあのセミの体に脱皮し、変態して、
異性を求める声を発し続けるあの声が息苦しさを感じさせているのかもしれません。
山では春から夏にかけてだけ広葉樹が激しく光合成をしているその木の体にとまって、
全身で異性を求める声をセミが発し続ける夏。
都会では太ももをむき出しにして
若い娘が激しくセクスアピールを発散しながら闊歩する夏。
高い温度と湿度がムンムンしている中で、あらゆる生命の活動が激しい夏です。
富士山までが冠の雪を溶かして真っ黒なオールヌードになっています。
その夏が終わって、
夏とは別の意味で激しい冬の季節に向かう途中の一瞬にだけ、
静かな秋が来るような気がします。
広葉樹の葉が光合成をやめ、セミが種の保存を終えて死に、
一瞬だけ静かな季節がやってきます。
黄昏、たそがれとは
山が黄色く、日が落ちる朱と混じって、
その黄色が一瞬だけ静かに輝く姿を言うのかもしれません。
激しい夏の活動でくたびれた葉っぱが木の本体との代謝を分断されて
光合成の活動をやめて葉緑素を失い、
緑から黄色、茶色、赤などの色に変色しながら死んでいく姿です。
紅葉は、葉が死にゆく姿と言ってもいいのかもしれません。
人の黄昏も、ある年齢を境に、
死に向かって枯れていく過程なのかもしれません。
秋は黄昏そのものです。
しかし、今、東京へ向かう新幹線の中から見た富士山は、
初雪が溶けて、また真っ黒な富士山に戻っていました。
夏のモヤも残っていて、AFがなかなか効かずピントが合いません。