2011年09月28日(水曜日)
2878.つらいことも、悲しいことも、人生の中の一つ
今日はお葬式でした。
一人の人生が終わる時は、やはり悲しいですね。
会社に帰ってきてからもう一つ悲しくつらい知らせが待っていました。
従業員さんが多くなってくれば、
そういうことに出会うことも多くなると言えばそうですが、
やはりつらいものです。
人の命は一人残らず死で終わります。
どんなに不老長寿を祈ろうとも、健康に気をつけようと、
百歳を全うした人でも、必ずいつかは死で終わります。
いかなることも常としてあることは無い。
諸行無常の言葉が胸に沁みます。
当たり前のことですが、
産まれる以前の意識が
少なくとも、その人の記憶においてゼロであったように、
死んだ後も意識はゼロ、無になるのでしょうか。
自分が無に戻る恐怖から、それを否定するために
あらゆる宗教が生まれたのかもしれません。
私はいずれの宗教もその教条を知っているわけではないので、
「宗教なんて・・・・」などと言うつもりはまったくありません。
あくまでも私の勝手かつ稚拙な考えです。
宗教とは自分が死んでもゼロにならないとしたらという仮定で、
産まれるという事とは、生きている事とは、死ぬという事とは、
この3つの事を論理的に結びつけたのが宗教なのではないかと考えたことがあります。
どの宗教の論理が正しいのかどうか分かりませんが、
基本は生きている事と同じように死後も有るという前提に立っています。
ならば生まれる前も有ると考えざるを得ず、
この二つをつなげるのが輪廻転生の価値観なのでしょう。
私はこのことに全くの無知ですので、分かりませんが。
人の本質は肉体ではなく魂(たましい)であって、
肉体が死ぬこことは、魂が肉体を一時的に失うことにしか過ぎず、
すぐにまた肉体を得て産まれてくるとする輪廻転生の価値観は、
人間が自分が自分としての意識を持っているという不可思議に、
論理性を与える有効な考え方に思えます。
だとしたら、
死は悲しむ事でもなく、つらい事でもないはずです。
でも現実に、死は怖いし、つらいし、悲しいものです。
でも魂が人間の本質ならば、それも錯覚にしか過ぎないのかもしれません。
しかし錯覚にしては、やっぱり、つらいし、悲しいし、怖いものです。
森羅万象のすべてを論理的に網羅したはずの
アイザック・ニュートンの万有引力の法則が、
アルベルト・アインシュタインの相対性理論によって、
限りない正確さは持っているが、概算でしかないことを証明されました。
しかし、昨日のニュースでは、
「ニュートリノが光速以上で進むことを実測した」という実験結果で
相対性理論の根幹である「光速は不変であり絶対に超えられない」を
否定したかもしれないそうです。
はるかに私などの理解を超えたことですが、
私達を生かしているこの世界とは、
物理的な理解だけでは到底理解しきれないものなのかもしれません。
物理的な理解の向こうに本当のことがあるのかもしれません。
ちょっと神妙にいろんなことを考えた日でした。