2011年05月09日(月曜日)
2782.私達が自ら選び、造った想定
日本の原子力発電所は、
世界が決めた基準値に沿って作られた日本国の法律どおりに作られていて、
国が決めた方法との通りに運転されていたのだろう。
国の想定した地震に耐え、
国の想定した津波にも耐える構造であり、運転であった。
その国の想定とは、過去に起きた最大の地震と最大の津波を基に想定されていて、
それで何十年間も大丈夫であり、
参考にした過去百年以上の記録からすれば、
これからも大丈夫であったはずだった。
それが、まったく想定していなかった大きな地震が来て、
想定よりもはるかに巨大な津波が襲ったので、このような事態に陥ってしまっている。
しかし東京電力は国が想定した法律に沿って原発を造り、運転していたので、
少なくとも法律違反はしていない。
法律的に言えば東電は何も違反をしていないし、
とりわけ過失をしたわけでもない。
例えが、正しいかどうかは別にして、
これを交通事故に例えてみると。
法律通りに正しく製造されたタンクローリーが、
規定どおりに造られた20,000リットルの灯油を、正しく積載して、
法律的に正しい免許を持った運転手が、
例えば高速道路を、制限速度を守って、
法律に何も違反していない運転で運行していた。
そこに、まったく想定していなかったような地震が起きた。
タンクローリー自体にはまったく過失は無かったが、
運悪くカーブを曲がっていたタンクローリーは横転して、
ひどく破損し、
積荷であった20,000リットルの灯油が全部流出し、
しかも金属の摩擦の火花で引火した。
そこがたまたま住宅地のど真ん中で、多くの家屋が火災で消失したとする。
人的な被害も大きかったとする。
この場合、タンクローリーの運転手、持ち主、20,000リットルの灯油の荷主、
それぞれにどんな責任がかかってくるのだろうか。
法的にどのような賠償責任が、誰にかかってくるのだろうか。
これは例えそのものが間違っているのかもしれない。
決して東電を擁護する目的でこんな例えを書いた訳ではないが。
しかし、
そんな風に考えると、
原発事故で被災した住民が、東電相手に損害賠償を求めて訴訟した時、
住民は東電に勝てるのだろうか。
東電は国が決めた法律通りに造った原発を、
法律通りに運用していたのに、
国の想定が甘かったために、想定を超えた大震災によって大事故になったのだから、
その法律を造った国が損賠賠償の対象になるのかもしれない。
しかし、東電をはじめ日本のあらゆる電力会社が、
「原発は絶対に安全です。」と原発安全神話を徹底的に国民に広め、
それを聴いて安心した人を、結果的に悲惨な目に合わせたのだから、
心情的に、その非は許すわけには行かない。
しかし、しかし、
私はこんな話も聞いた。
福島第一原発からわずか2kmしか離れていない場所にあり、
いまだ営業再開の見通しが立っていない
キーパープロショップ「渡辺商店Q-pit大熊」の鈴木所長からの話。
「東電の社員さんはQ-pit大熊にも来ていて、
今現在、事故現場で頑張っている人たちもいっぱいいる。
あの人たちは、今、会社のためとか、
命令を受けているからとか、そんなことではなくて、
住民の人のために、日本の人たちのために、
自分たちがやらなければ誰がやるのか。自分たちが頑張るしかない。
と、本当に使命感だけで、
危険かつ過酷な状況の中で必死に頑張っているんです。
それを思うと涙が出てきます。」
原発事故に追われて、
つらい避難生活をしている避難民の前でなかなか言えることではないが、
原発事故現場で頑張っている人の一人一人を知っている人には、
東電の何でもかんでもが全部憎いではない。
結果的にこんな悲惨な事故を引き起こしたのは
甘い想定で、
“百数十年の歴史の中であった最大を想定した結果としての甘い想定”で、
(では厳しい想定とは?)
法律を造った国がいけないのだろう。
そんな甘い想定で法律を造るべく働きかけた人もいけないのだろう。
しかし国とは、
今の政府、今の行政だけでもなく、
過去の政府、過去からの行政を含めて、
それらの人たちを選択し、政治をゆだねてきた私たち自身であり、
原子力発電を含む電力によって
豊かな電化生活の恩恵をふんだんに享受してきた私達自身ではないだろうか。
国とは私たち自身のことであることを忘れてはいけない。
日本は民主主義なのだから、
国の権力機構は国民が選んで造った存在であり、
国とは、まさに私たち自身であることが、民主主義国家の前提である。
水力発電、太陽光発電、風力発電、地熱発電などエコなエネルギーによる発電より
CO2がいっぱい排出する火力発電のほうがコストが安い。
つまり電気代が安く済む。
その火力発電より、原子力発電のほうがもっとコストが低い。
つまり国民の電気代が安く済む。
その安い電気代で、電化生活を享受したのは私たち自身であり、
過去において、
甘い想定を基に原発の法律を作ったのは、私達が選んだ人たちであった。
つまり、百数十年の中で最大という想定を
私たち自身は、厳しい想定と思い、甘い想定とは思わなかったという事実がある。
その過去の人たちが、
自分たちが作った結果的に甘い想定の法律で起きた事故を
自らは被害者のようなことをいうのは、間違っている。
そして
過去に作られた法律の前提となっている想定が甘いと分かったのだから、
より厳しい想定の元に、法律を変えてまで、
厳しい運用と、運用を許されている事までを停止させようとすることは、
至極、当然のことに思う。
それが唐突であろうと何であろうと、当然のことのように思う。