2010年11月07日(日曜日)
2651.年齢を重ねた我らだからこそ
札幌からの帰り、飛行機の中だ。
まだ若くして亡くなった方のお葬式はつらい。
そろそろ私の同じくらいの年代の方が亡くなることが多くなったのは、
自分の人生がいつ終わってもいいような用意を意識すべきということだろう。
だからこそ、悔いのないように精一杯がんばって生きたいとも思う。
私は今まで「解ってしまった人」について時々書いてきた。
今日またそんなことを思い出した。
人によっては、
ある程度の年代で、
ある一定の成功体験をすると、
その成功体験が自分のすべての判断の物差しになって、
もうすべてが解ってしまったような錯覚をしてしまうことがある。
するとその人は、他の人の言うことに耳を傾けなくなってしまう。
その人にとっては「もう解ってしまった」ので
これ以上学ぶこともなく、成長したり進化したりする必要もないからだ。
その「もう解った」のが、すごく若い頃、
たとえば10代とか、20代にやってくると、
社会経験がまだ浅いので、
価値観が幼いまま成長を停止し、精神的にも低いままになることが多い。
幼い価値観のまま年老いてしまったのと同じになる。
しかし、まだ若いので「もう解った」のもそれほど深くはないし、
これからの長い社会経験の中で強い刺激を受けることも多く、
自分がまだ「解っていない」ことを思い知る機会も数多くあるので、
「もう解ってしまった人」症候群から抜け出すチャンスも大きい。
しかし、それがたとえば30代とか40代でやってくると、
成功体験もそれだけ大きいものであって、
「解ってしまう。」深さも大きい。
たとえば会社の地位とか、役割というものは、
その人がより多くのことを知り、
新しいことを身に付け、多くの人に対して、
多くの事が出来るようになるからこそ上がっていくものだ。
だから「もう解ってしまった人」は、
年齢を重ねて、経験が長くなっていっても、
「もっと知り、もっと理解し、もっと違う視点を持ち、もっと能力が上がる」
そういう成長とか進化が出来なくなっていることが多いので
それ以上に地位を上げたり、大きな役割を与えることが出来なくなることがある。
すると後から来た人が、
もっと知り、もっと理解して、
新しい視点で、もっと能力を上げて、
成長し、進化してくると、地位も役割もどんどん上がってくるので、
必然的に経験の長い者が、
若い者や後輩に地位と役割の面で追い越されることもある。
「もう解ってしまった人」は
極めて衝撃的な事でもない限り、
「もう新しく知ることも必要ないし」「成長することも必要ない」ので、
新しい力をつけることもなく、成長することもなく、
ずっとそこにとどまり続けることになってしまう。
私も含めて、年齢を重ねてきた者にとっては、
若者よりも残された時間は短い。
せっかくここまで熟成して、多くの場数を踏んで力が着いているのだから、
その気になれば、
時代の変化を読み、自身が進化するスピードも速く大胆になっているはずなのに、
こんなところで「解ってしまって」成長と進化を止めたら、
ただの時代遅れのお荷物になってしまう。
我々のように年代を重ねてきた者は、
「解ってきたからこそ」「解らないことが多いことも解っている」はずだ。
せっかくここまで来たのに、
「解ってしまって」「進化を止める」のはあまりにも勿体ない。
今を、今として、今だからこその貢献を、力ある者として果たしていきたい。