2010年08月07日(土曜日)
2571.体の姿勢で自分の頭が変わってしまう
今日、営業会議が終わってから
プレゼンテーションのための研修を行ったが、
その中ですごく面白い実験があった。
二人一組になって両方とも椅子に座り、
片方が聞き手、もう片方が話し手になる。
聞き手は、
足を組んで腕も前で組み、
椅子にふんぞり返って座り、
顔をしかめっ面にして、話し手の目を決して見ず視線をそらす。
この状態で、話し手は自分の自慢話を三分間話すという実験だ。
つまり、実に無礼な態度でいる聞き手に、話し手は自分のことだけを話す。
この状態では話し手はものすごく話しにくい。
自分にまったく興味を持っていない相手に、自分のことだけを話すのだから、
まったく話が通じるわけがなく、
話していてもばかばかしくなる。
一生懸命に話すことも出来ず、声もだんだん小さくなる。
この状態は容易に想像できるのだが、
面白かったのは、
私が、その無礼な聞き手になった時、
相手が一生懸命する自分の自慢話の内容がまったく頭の中に入ってこず、
何を話しているのか、さっぱり分からなくなっていたこと。
足を組んで腕も前で組み、
椅子にふんぞり返って座り、
顔をしかめっ面にして、
話し手の目を見ずに視線をそらしていても、
それはわざと、演技でやっていることであり、
私の耳と頭は、一生懸命に相手の話を聞こうとしているのだが、
そういう態度をしているだけで、
相手の話がまったく頭の中に入ってこず、
何を話しているのかさっぱり分からないのだ。
これは実に不思議な現象であった。
人は頭の中の意志では相手に好意を持っているのに、
わざと無礼な態度をするだけで、頭の神経は勝手に相手を拒否してしまうようだ。
相手に対する「形」としての姿勢、態度が、
頭の中の心としての姿勢まで大きく影響し、決定してしまう様子は、
自分の意思は、
自分の意志によって100%決定できると思っていた私にとって、
わが意思が、肉体的な態度によって左右されることが分かった新鮮な驚きであった。
「謙虚であれ」とは、
謙虚であろうとする意志の方向、つまり心がけでは実現するものではなく、
謙虚な態度と実際の姿勢によって初めて実現するということなのだろう。
「躾」の意味が、改めて理解できたような気がした。