2010年01月29日(金曜日)
2413.はっきり言えば、万々歳なのだ
秋葉原の無差別殺人事件で、
犯人は「自分を無視した世間の人間に復讐したかった。」
というようなことを言ったらしい。
何とも自分本位な言い分で救いようのない絶望感が見える。
自分の不遇を世の中のせいにする。
人のせいにする。
こういう人はいっぱいいるが、
その恨みの念と憎しみの感情は、底知れない深さまで落ちていくのだろう。
その憎しみが無差別殺人にまで発展してしまったのは、
コンピューターの中のバーチャルな世界と、
現実の世界の境目を見失ったからだろうか。
決して絵空事ではなく、
理解できる範囲の勘違いであることがなおさら恐ろしい。
人間社会は自分と自分以外の人との密接なつながりで出来ている。
そのつながりは、必ずしも自分の都合のいいようにだけは働かない。
たとえば、商売をやっている人ならば、
お客様の欲しがる商品(サービス)を提供して、
その商品が持っている付加価値にお客さまが見合うと思った料金ならば、”買い”、
続けて”欲しい”と思えば、繰り返し”買い続け”、
その料金-仕入れ-経費=“プラス”ならば“商売”が成立して、
そのビジネスは存在し続けることが出来、
その商品をもっとたくさんの人が欲しいと思えば、その商売は発展し拡大していく。
その意味では、商売という社会的な行為の命運は、
お客様にすべての決定権があると言える。
しかし、お客様に提供する商品は自分が仕入れるのであり、
サービス業ならば自分でその商品を作るのであり、
それがお客様にとって
“欲しいもの”、“買うもの”、“買い続けるもの”であるかどうかは、
自分で決め、自分で作るのだから、
実は、すべての決定権は自分にあることになる。
その商品がお客様の欲しい商品であるのか、
買い、買い続けたい商品であるのかは、自分で決める(作る)しかない。
そしてそれをジャッジ(判定)するのがお客様であるというだけだ。
何を仕入れ、何を作るのかを決定するのは自分であり、
それを判定し、買うか買わないかを決めるのがお客様であるということ。
お客様がどうジャッジするのかは、
自分が何を仕入れ(作り)、どう販売するかで決まる。
結局、自分の店舗がお客様から支持され繁盛するのか、
支持されず衰退しているのかは、
自分が何をどのように売って(作って)いるのかで決まり、
自分の行動がすべてを決めてしまっていることになる。
それはビジネスの上だけでなく、
社会においての人間関係、家族の関係、
すべてのことについて同じようなことが言えると思う。
今の自分の境遇は自分が作った結果であり、
今の自分に対する他の人からの評価、状況は、自分が作っているほかにない。
自分の今は、
自分の行動と考え方の結果ということになる。
自分の今の状況が不満であり、不足しているならば、
それは自分の行動と考え方が間違っているか、不足しているからに他ならない。
“人のせい”“時代のせい”“世の中のせい”は、やはり、あり得ないのである。
その意味で、誰かのせいで、自分が被害者だと思った時、
それは、自分が自分を見失った時の、一つの危険信号ではなかろうか。
秋葉原で殺された人たちは、100%被害者であり、
身勝手な犯人に出会ってしまったことは真に気の毒な不幸である。
しかし、通り魔的な悪人と偶発的に会うような不幸は滅多にあるものではない。
多くの場合、自分を被害者にして不幸になってしているのは自分自身なのではないか。
そんな自分で自分を不幸にした“被害者”が、
実はこの通り魔の源なのかもしれない。
誰の中にも通り魔の芽はあるのではないか。
人のせいだと思えば、
はっきりと正面から言えばいい。
簡単だ。
こそこそと、ぐちゅぐちゅ、自分は被害者だと思い、
自分の中で自分を正当化していると、
間違いなく、自分で自分を不幸にすることになる。
相手が何であろうと、それを正面から言えばいい。
その上で、自分に非があれば、それが客観的に見えてくるものだ。
相手が非を認めることもあるだろう。
いずれにしても、すそれで納得できる。
納得すれば、自分は被害者ではなくなり、
自分が不幸になる危機を切り抜けたことになる。
それで万歳なのだ。
すっきりして爽快、万々歳なのだ。