2009年08月04日(火曜日)
2274.支えてなんかくれなくていい。共に闘うのだ。②
昨日のブログで、
平和な日本のビジネスにおいて、
後方支援という概念は存在しないと断じる。と書いた。
「支えてなんかくれなくていい。共に闘うのだ。」
とは、予備校か何かのポスターに書いてあった言葉で、
「縁の下の力持ちなんて要らない。一緒に舞台に上がって来い。」
とは、私が時たま使う言葉で、
どんな役割を持った人間でも、スタッフでも、
「自分は“縁の下の力持ち”的な仕事なのだから、表舞台に出る必要はない。」
なんてことは絶対にないと思う。
どんな役割を持った人でも、表舞台には上がるべきだ。
我々の仕事で言えば、
表舞台とは施行店さんであり、キーパープロショップであり、快洗隊の店舗である。
たとえば、企画をする立場にある者ならば、
施行店さん、キーパープロショップ、快洗隊を知らずして生きた企画は出来ない。
表舞台とは演じる場、能動的な動きの場である。
表舞台に立って、初めて観客の役に立つことが出来るように、
自分の身を現場に置き、演じ、現場で働きかける事なしに、
どんな企画であっても絵空事であり、机上の空論でしかない。
現場に身を置く事によってのみ、生きた企画が出来るものだ。
そして役に立つ仕事が出来る。
我が企画のスタッフは、あらゆるKeePerを施行するだけでなく、
実際にお客様と接し、企画がどう生きているか知っている。
広告に携わるものは、広告屋になってしまったところで、生きた広告が作れなくなる。
それは社内、社外を問わずに言えることではないか。
あらゆる間接部門の人も、現場がどのようになっているのか知らずして
正しい把握は出来ないし、役に立つ支援も出来ない。
舞台裏から見る仕事と、真正面から見る仕事ではまったく違う姿をしている。
縁の下の力持ちは、表舞台に出てきて、
舞台がどうなっているのか、役者たちが観客に何を演じているのか、
観客がどこでどう反応するのか知るべきだろう。
パソコンの画面には、数字と、文字と、絵が並んでいるだけで、
そこには表舞台で演じられていた“痕跡”が残っているだけ。
舞台を演じて初めて何をどうすべきなのかが分かる。
ただの縁の下の力持ちであるより、一緒に舞台に上がって演じてみよう。
ビジネスにおいて、
支えているだけの存在なんてありえない。
一緒に闘うべきなのだ。
それでこそ、真に役に立つ縁の下の力持ちになれるはずだ。
舞台を知らない陰子は役に立たない。
舞台を身をもって知っているからこそ、陰子としても役に立つ存在になりえるのだ。
影でひっそりとしていたいだけ、
支えているだけで満足する人は要らない。
一緒に演じ、闘うべきだ。
人と人が殺しあう戦場において、
指揮をするだけの指揮官も、作戦を立てるだけの参謀も、
実際の戦場を知らなければ、味方を飢え死にさせても鈍感な鬼となる。
後方支援は必要だ。
それは戦場でもビジネスの世界でも同じだ。
しかし、現場を見たこともない後方支援は意味をなさない。
「支えるだけでなく。共に闘うのだ。」
「縁の下の力持ちなんて要らない。一緒に舞台に上がって来い。」
一昨日の夜、
ガダルカナルの「玉砕という名の飢餓地獄」を伝える番組を見てそんな事を思った。