2009年07月01日(水曜日)
2246.本日、我が社の元旦なり
なぜ、わが社は六月を決算月にしたのだろう。
もう十五年前に決めたことなのではっきり憶えていない。
洗車は、最も忙しいのが12月で、次に8月、4月、10月。
最も暇なのが1月、次に2月、6月、9月。
特に6月は雨が断続的に降り続いて気が滅入る月であるが、
この月を決算で乗り越えて、
新年度を、燃える7月と8月でスタートダッシュする。なんて理由だっただろうか。
しかしアイ・タック技研の設立時には、
まだ快洗隊はなかったのでそんな理由ではなかったような気がする。
早い話が、はっきり憶えていない。
物事には原因・理由と結果があるが、
因果関係に明確な理由があるとは限らない。
私はこの会社の決算月が6月である理由を憶えていないところを見ると、
どうも大した理由はなかったようである。
何がどうして、こうなって、ああなったのか、
そんな因果関係だけですべてが組み立っている訳ではない。
特に複雑に要因が絡み合っている場合、それを包み込んでいる状況と、
自分の持っている価値観や視点からは見えない方向、
つまり自分以外の目線からの学ぶことが重要だ。
ビジネスの世界で言えば、自分以外の目線とは、ほとんどの場合「客目線」である。
自分以外の目線、他人の視点から見える風景とは、
自分の視点からは見えないものなので、
自分以外の人が、
自分には見えない物を「有る」と言っても、
自分には見えていないので「有るわけがない」と否定してしまうことが多い。
否定したのだから、
それがどんな物であるのだろうという興味も湧かないし、
その人の視点に自分の身を持っていって見ることもない。
しかし、「自分には、ほとんどすべてが見えていない」ことを知っていれば、
自分以外の人が「有る」と言っている物が、
自分は知らないが、「有る」ことを予想出来る。
だから自分自身の意識をその人の場所に持っていき、
その人の視点で見ようとし、運がよければ
自分の視点からは「無い」としか思えなかった物が、
視点を変えることによって、実は「有る」ことを知ることができる。
これを「学ぶ」という。
逆に、自分の知っていること、
自分が見た風景が正しいという前提で、
「見えない」から「無い」と言い切り、
「見える・有る」と言っている事を否定すれば、
「有る」ことを永遠に知ることなく、学ぶことはない。
まず自分が知らないことを知るべきである。
自分が見えない物も「有る」ことを知るべきである。
より広い視野を持ち、より深い思考で、知らない物が「有る」と知らされた場合、
「無い」と主張するより、な・ぜ・「有るか」を探すべきである。
それは自分からは見えなかった物が、見えるように学ぶチャンスであって、
「見えない・無い」ものを「有る」と攻撃されているわけではないので、
「無い」と攻撃的に反撃すれば、チャンスは無抵抗に去っていく。
学ぶとは、そういうことだと思う。
人間は死ぬまで学び続ける存在であるから、魂としての意味があるのだろう。
もちろん私も知らないことだらけ、
学ばなければ「有る」ことを知らないことだらけ。
だから、生きている意味が少しでもあるのだろうと思う。
本日は我が社の元旦、年頭にそんな事を思った。