2009年02月08日(日曜日)
2130.知っている。解っている。
人から何かを言われると
「知っている。」「分かっている。」と答える人がいる。
「そんなことは知っているし分かっている。言われるまでもない。」
という意味なのだろう。
他の人がその人に何かの間違いに気が着いて指摘すると、
「分かっている。」と答えられると、
それ以上何も言えなくなる。
しかし気を取り直して、その人の何が間違っているのかを分解して説明すると、
まるで攻撃されたかのように自己防衛のモードに入る。
そうすると、
その人はその間違いに気がつくことはもう不可能になって、
また同じ場面があった場合には、また同じ間違いを繰り返すことになり、
まったく進歩しなかったことになる。
私はそれを「早分かりの人」と呼んで、
まだまだ進化の途中であるのに、
ある日、突然、
「もう何もかも知ってしまった人。」
「すべてを分かってしまった人。」になることによって、
進化がストップしてしまう現象だと思っていた。
まだたっぷりと進化できる能力と環境を持っているのに、
早々と分かったと思い込んでしまうのは、なんと勿体ないことだと思っていた。
しかし、この現象は
ただ「分かってしまうこと」によって引き起こされる単純な現象ではないと思い始めた。
何らかの人の意志を受け入れること自体を拒絶する因子が、
何らかの経験の中で、その人の中に生まれ、存在していて、
その人に何かについての理解を求めた時、
それを拒絶する反応が、
「分かっている。」という言葉で表現されるのかもしれないと気が着いたのだ。
他の人の意志を受け入れ、
それに対して自分の反応を投げかけるのが
いわゆるコミュニケーションというものだろう。
コミュニケーションとは
「他人の意志と自分の意志の連続した交換」とするならば、
自分の意志を相手に受け入れるのと同じ重さで相手の意志を受け入れることが必要だ。
他人の意志を受け入れず、
自分の意志だけを相手に受け入れさせようとするのは
自分を相手に対して押し付けるだけの行為であり、コミュニケーションとは言えない。
相手の言葉に対して
「分かっている。」とか「知っている。」と思ったり、答えるのは、
相手の意志を理解しようとせずに「そんなことは分かっている。」と一蹴することになる。
それは、
「知っている」から受け入れないのではなくて、
あるいは「知っている」と思い込んでいるから受け入れないのではなく、
受け入れないから、「知っている」「分かっている」と答えるのかもしれない。
だとすると、これは「早分かり」ではなくて、
ある意味、自分の心を閉じてしまっているような現象なのかもしれない。
とすると、「すべての人が未完成であり、未完成であるからこそ進化できる。」
つまり
「まだ知らないこと、分かっていないことが誰にでも山ほどあって、
知らないことを知ることが、進化の始まりだ。」
なんてことを言うのは、
まったく意味がないことになる。
たとえば、
他人の意志を受け入れること自体を拒絶する因子を持った人がいるとしたら、
何をどう話せばいいのか、今の私には見当もつかない。
しかし、今の世界そういう人が増えているのかもしれないな、とも思った。
何年か前、
中国の北京からバスで5時間ほど離れた田舎都市「錦州市」で撮った思い出の写真。
この人に「そんな大きな荷物、ロバがちょっとかわいそうではないだろうか。」
なんて言ったら、
「俺のロバに俺が何をしようとお前が知ったことか」と言われるに違いない。
・・・・・
錦州では、人生の中でもっとも惨めな思いをした経験のひとつがあった。
2004年06月16日(水)「 977話 高速バスの悲惨」